深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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私にはものすごくファン交流をしたいような気持ちと、わたくし一人称で作品にダイレクトにアプローチする場合に面倒がありそうでファン交流したくない、という気持ちがあった。
作品のファン! というからには、自分が個人的に作品について意見を言えばいい。もし自分の思考判断で意見を通すのが難解と思われることがあれば他人の意見を参考にしつつ、納得できるところまで作品に書いてあることを理解しようというつもりでいた。
しかし、だんだん読むにつれて自分の解釈が形になってきたため、他人の意見はもはや不要と完全に切りすてた。「作品を解釈する」という目標においては、もう独自のやり方で納得して終わっている。
果たして、第三者が読んで筋が通ってると思えるか? 何を思うか? までは議論したことがないのでよくわからない。
だから、私は他の人の読み方がものすごく知りたい。他の人が作品内の事象や言説をどんなふうに一貫した設定なり主張なりとして物語を筋立てているのか読みたい。それを読んだからと言って、相手の意見に必ずしも譲歩するつもりはないけれど、自分では思わなかったような納得いく意見があるならその線でも読んでみたい、と思った。
*
おそらく、ファン交流とは「だから~」以降のやり取りなんじゃないか。≪ファン交流できる人たち≫ の界隈では、上記のように自分たちがいかなる動機を持ち行動に移しているのか言葉で納得しながらやってはいない、とも思う。
当事者からすれば違うと思うけれど、私にはそう見える。
そう見える限りにおいて私は当事者になれない。
なぜなら、当事者は違うと言うから。
私の当事者としての動機はその人たちとは違うかもしれない。
けれど、あの人とは近いかも。同じかも、しれない。
もしも、一緒だよ! という人がいたらうれしいな。というキモチで以下に続く。
作品のファン! というからには、自分が個人的に作品について意見を言えばいい。もし自分の思考判断で意見を通すのが難解と思われることがあれば他人の意見を参考にしつつ、納得できるところまで作品に書いてあることを理解しようというつもりでいた。
しかし、だんだん読むにつれて自分の解釈が形になってきたため、他人の意見はもはや不要と完全に切りすてた。「作品を解釈する」という目標においては、もう独自のやり方で納得して終わっている。
果たして、第三者が読んで筋が通ってると思えるか? 何を思うか? までは議論したことがないのでよくわからない。
だから、私は他の人の読み方がものすごく知りたい。他の人が作品内の事象や言説をどんなふうに一貫した設定なり主張なりとして物語を筋立てているのか読みたい。それを読んだからと言って、相手の意見に必ずしも譲歩するつもりはないけれど、自分では思わなかったような納得いく意見があるならその線でも読んでみたい、と思った。
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おそらく、ファン交流とは「だから~」以降のやり取りなんじゃないか。≪ファン交流できる人たち≫ の界隈では、上記のように自分たちがいかなる動機を持ち行動に移しているのか言葉で納得しながらやってはいない、とも思う。
当事者からすれば違うと思うけれど、私にはそう見える。
そう見える限りにおいて私は当事者になれない。
なぜなら、当事者は違うと言うから。
私の当事者としての動機はその人たちとは違うかもしれない。
けれど、あの人とは近いかも。同じかも、しれない。
もしも、一緒だよ! という人がいたらうれしいな。というキモチで以下に続く。
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作家が多作だとその人固有の感性思想や何かがわかるかもしれないし、作家に直結する情報があるほど自身の読み方に確信を得られたような気持ちになる。
だけど、中古文学の研究(私の文章を読めば分かると思うけれど、そこそこ要領のよくない学士程度の意見です)それも、オーソドックスに『源氏物語』をやった感覚だと、当時の思想・情報から相対的に作家や作品のことを判断しなければならないし、長編で判断材料がたくさんあるにしても、通説のとおりの作品とは言いきれるものではく、作者も一人なのか疑わしい。にもかかわらず、自分が作品を読んだ態度として、物語はこういう話、作者は紫式部だと、「絶対(意味:たぶん~と思われる)」のものとして言わなければならない。変な感じだ。
論文書いたり演習発表とかするけど、解釈を示してあまたいる研究者の中で自分がどういう立場にいるのかを知る。また、自分の解釈を作中描写や資料を駆使して筋を通す技術を披露するようなもので、それらの研究活動が<新発見!><大正解!> のような目に見える成果になるわけではない。影響力として研究者間で利用価値のあるような資料を作るセンスもなく、自分にできることと言ったら世にあふれかえってる資料から目についたものをあげつらうぐらいだ。
大学へ行ってそこそこのやる気で「勉強」に打ち込んで出来ることと言うのはその程度なので、もし、社会に適合したいと思ったら「勉強」で自分の解釈意見の全研究者内での位置づけを確認するよりは、もっと広い目で社会勉強をしたほうが良いと思う。
私は対人対応が全体的に下手くそで、なんとなく自分自身の態度が誤解を与えやすいものじゃないかという思い込みや、お高く止まってると勝手に判断されて嫌われたりするようなことがあったりして、自分で発信することへの不信と他人の目が怖すぎてどんな人とも馴染めなかった。
すると、ニートになります。
気をつけよう。
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さて、そんなコミュ障をこじらせたお勉強好きでも楽しいことはある。好みの論文(解釈が納得いく/筋の通し方に感動)を見つけたり、よくわかんない論文にツッコみをいれつつ微笑んだり、そのよくわかんない論文の補論を読んでギャフンとなったり。他人の意見を聞いて意味が分かったときの楽しさを味わえます。
もっと有意義に学んだ人からしたらお粗末な感想だと思うけれど。
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未だに、学校の文学研究ってなんなんだよ! でつっかかっていて、その延長線上に二次創作を読みたい! という気持ちがある。『源氏物語』の古注釈から現在までの論文を読んで、作品がどんなふうに読まれてきたか、なんで通説ではこういう読み方になったのかなー、とか辿るの面白い! みたいな感覚だと思う。
誰かフレンドリーで気さくで根気のある人が特定の作品について、ファン個別にどういう読み傾向にあるのかを見てって、分類して、体系的にまとめたりしたら面白いと思うんだけれど、面白がった先にあるものがつまんなそう。(そして、まとめる奴を私は嫌うだろう)
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たぶん、学校で勉強したことというのは、<人の意見を注意深く聞いて自分が望まない方向に向かっていかないように監視する方法> であり、<他人が解釈する自分の意見を意図した望む方向にもっていくための方法> だった。
それを、もっと楽しくつかえるようになりたかった。
上代へ時代を遡るほど「絶対」のもつニュアンスや意見への確信度は違うだろうから、そこを考慮にいれずに誰のいう「絶対」も同じ「絶対」であるという捉え方はおかしい。また、時代に関係なく読者は誰でも作者に直接接点があるわけでもなく、まして死んでから解釈を言うのなら、作品の意図は「感じられる、思われる、読める」という各々の受け取り方でしかないんじゃないか。
作者がそのとおりと言ったお墨付きがない意見はどれも「そのように読める」というものだ。だから、その限りで、願望的確証ぐらいは個人的に楽しみたい。
願望を喋ってる時に他人から「作中の描写から解釈について説明してくれ!」とか言われたら、願いごとに含まれる、おまじないのような、魔術的なにかが無効化されたみたいでイラッときちゃうよね。
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でも、やっぱり「説明」というのが私は読みたいし、それが同意できるものでも、そうじゃなくても面白いと思う。ただ読みたいだけだし、書いてあるだけで面白い。好き嫌いを別にして面白い。そういう面白いものを見ると楽しいんだけれど・・・。
なんとなく「(作品解釈における)説明=<絶対>の主張」みたいな考え方がふっきれなくて、心底楽しめないのが辛い。
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