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深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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この記事は別のブログから移動してきたものです。
文章量があまり多くないものをまとめました。

・ テーマと関係がないと判断した部分を省略して抜粋したものがあります。・ 内容に変更はありませんが、可読性をあげるため加筆・修正・見出しを設ける など手を加えました。・ 各話題のあとに当時その記事を投稿した日付を付記しました。

[2014.8.10 記]

【記事題名一覧】
■ 浮遊するまーと殺さないみみみのこと
■ 漫画キャラクターは死なない追記と消滅のこと
■ みみみ → むむのこと
■ ラヴーマーと偶像崇拝のこと

サルベージしてなんかあったら増やします。


拍手


* * *

■ 浮遊するまーさまと殺さないみみみのこと(雑記)

今月の『わざぐぅ!』 を読んでてつらくなってボロ泣きした馬鹿がいますが……

* コミック3巻収録の「戦いの崖(バトルクリフ)決着……そして……」 の掲載号でした。

<ステイルVSゲベ> はステイルにこれといった同情の余地がないので良かったんですが、まーさまの発言を拾い集めると自分に思い当たる節が多すぎて…… つ、つらくナッテクルンダ! 思考の違う人から色々な説得なり反論なりぶっけられてるところを見るとつらくなってきます。まして、主人公からの否定ともなると、物語という文脈から行けばアンチテーゼなわけですよね。主題の逆。たぶん合流は無理だろう。それを考えると、もう、なんか、同じ土俵に立つことについて疑問が……。

  「こんな大会、興味はない。」

とか言ってるので、自分の立ち位置は分かっている様子。
浮遊するまーさまでした。

 *
みみみちゃんの“生かしてやろう” 展開はハートフルです。

だからといって、みみみちゃんの周りの人が手助けしてくれててがんばる的な流れと、まーの自分から手を借りてがんばるっていう流れは違う。こういう書き方すると語弊がありそうだけど、みみみのやり方は受動で、まーのやり方は能動なんですよね。

「こうしたい」 という目標に対して、みみみは周囲に与えらるものの中でやっていこうというスタンスだ。まーは実現できる方法を見つけてトライしている、ということは作中から十分読み取れると思う。

で、受身の立場の人間を主人公にしていて、カツカツ姿勢の野望に積極的で意志を持って実現に向けて努力しているまーに対して、一口に「だれかのチカラをかりてイチバンになる」 とは「なさけない」 なんて言いようを見ると唸っちゃう。みみみちゃんと、まーさまじゃ事情もやり方違うのに、お前、そこ、説教じみた発言しやがってぇっ!!  とか思う。

や、説教とかアドバイスとかいうものじゃなくて、「あたしはこういう考えです。ゆえに、あなたの考えには賛同できません。あなたのような考え方をしている人を見ると、あたしは悲しくなります」 という、意見を言っただけかもしれません。

ここに至るまでにまーもベラベラ喋ってたので、二人とも十分意見は出しつくした感じのところで、わざ武王が出てきてバトルになって<ロンリー武王さまVS三位一体わざぼー> という多勢に無勢展開によるまーとみみみの立場の違いを改めて確認した。そのあとに、

まーは“一緒に死のう” で みみみは”一緒に生きよう”
という結論の違いが発表される。

みみみちゃんの素敵ポイントは“殺さない” 。みみみちゃんの良い奴ポイントはやっぱり殺さないところだろうな。立場の違う人間が共存する道っていうのは、とりあえず、一方を殺さないってことなのかな。そう思うとまーさま殺しすぎです。そこは私も彼のイカンとこだと思える。

…… 死ぬなら、一人で死のう!

 *
あれっすよね。まーさまやっぱり寂しいんじゃね?
と思える節が端々に。「一緒に生きよう」 は互いに関係なくても、おのおの勝手に生きてれば良い話で、「一緒に死のう」 はそれぞれ勝手に死ねば良いというのとはまた違う。時おなじくして同じ状況で死にましょうという瞬間の共有なんですよね。

谷川俊太郎の「きみ」という詩でも

 ゆうべゆめのなかでぼくときみは
 ふたりっきりでせんそうにいった
 おかあさんのこともおとうさんのことも
 がっこうのこともわすれていた
 ふたりとももうしぬのだとおもった
 しんだきみといつまでもいきようとおもった

とか言う。「しんだきみといつまでもいきよう」 ってややこしいですが、「ふたりともしぬ」 を共有したうえで、「きみといつまでもいきよう」 ということになる。一回、「しぬ」 を共有した上での、共有する「いき」 とでも言えば良いのか。

…… やだ、谷川さん。この文章なんかエロい(^^;)

ちなみに、「きみ」 は少年のゲイの心情をうたった作品だそうです。ただし、詩は受容者ごとに色んな読み方ができる。それが詩の性質だとも谷川さんはおっしゃってるので、「あべ」 と川へ泳ぎに行っちゃう「きみ(女)」 に想いをよせる「ぼく」 として読んでも良い。いくつなんだろう、「ぼく」「きみ」「あべ」。
〔参考:「ぼくはこうやって詩を書いてきた 谷川俊太郎、詩と人生を語る」(ナナクロ社)〕

話が横道にそれたけれど、
とりあえず付き合ってくれたみみみちゃんはすげーいい奴だよ。
やっと、みみみちゃん、どんなにいい奴なのか分かった気がする。
みみみ、良い人です。

そこで、翻って思うのが、
みみみちゃんには好きに生きてほしかったなぁ、と思った。
(もう死んでるノリなんですか? という…… ^^;)
[2013.01.24]


■ 漫画キャラクターは死なない追記と消滅のこと(雑記)


漫画キャラクターは死なない。

の内容に準じて、話題を少々ひっぱるのだけれど、

大塚英志がいう“まんが記号説” というのは、まんがにおける“絵の描写方法” では写実的なものは描けないということを前提とし、まんがキャラクターの身体性が非写実的であり生身の肉体と異なることを言っていた。あらゆる生理的現象は起きないし、傷つかない、死なない、重量もない、性別もない。そういったことを描くための方法が手塚治虫以来さまざまな作家によって模索され、技術革新していった。

写実性というのは生身に近い身体のことで、つまり上記で“ない” といったものがある身体のこと。現代では“まんが” という描画方法においても“ない” ものを“ある” ように見せかける技術が進んだという。当然、作中に“ない” 人と“ある” 人が混在すると混乱が起こるのであって、読んでいて疑問がいくつか浮かぶ。

・・・と、いっても、その疑問は作品そのものというよりは作品を読む読者のほうに向く。いったいどうしてそれでいて納得して読む事が出来るのだろう?

私自身にも驚くんだ。
何で自分は納得しているんだろう?


そういったことと関連した『わざぼー』 への疑問を〔5〕 に書いている。
“「死」 を暗示すると思しき表現” が3種類登場した。

 ・ みみみとまー
   → 建物からの脱出が絶望的な状況が描かれ、建物の遠景に切り替わる。
      建物が崩落する。

 ・ むむとめんめん
   → わざ武王の攻撃で致命傷を負い、気を失う。
      わざ武王から「死んだ」と説明される。

 ・ 他
   → 戦いに敗北し、“消滅”する。


これらが、直接的で確定的な死を描いているというよりは“暗示” の範疇であるというのが私が見たところです。これは読者への配慮もあるだろうけれど、生死を読み取る事が出来ない曖昧な表現にすることで、先読み不可能になる。読者の意識操作みたいなものの一種としても役に立っているんじゃないか。

死んでしまったのか、生きているのか
・・・・・・ ハラハラしながら読んでる人がここに一人。

それはともかく、問題は“消滅” という表現。
作中にいくつか登場するけれど、手元にコミックがないので記憶だけを頼りに例を挙げると


● 第一章の“消滅” 
  → わざ武王によるキャラクターの操作。
     魔の約束により、契約を結んだキャラクターはみみみに負けると消滅する。
     みみみはこの事実を知らず、キャラクターが消滅すると驚く。
     “消滅” = 死 ではなかったように思う。

     人知れず消えていったチャオチャオは泣いていたので、
     “消滅” とは消される者にとっては泣くほどのことらしい。
     (あるいはここから、“消滅” = 死 を読み取れるかもしれない)
     (それにしちゃ、みみみちゃん随分薄情だなぁ・・・)


● 異空間でのむむの“消滅”
   → わざ武王とみみみが宇宙空間で対峙するとき。
      この消滅は対決に向かうみみみの孤独感を表すための
      便宜上の消滅と考える(作中での説明的なものは異空間ということ)


● シッポウの“消滅”
   → シッポウがまーからわざ武王での攻撃を受けたとき。
      みみみは“消滅” にショックを受ける。

      “消滅” = 死 のニュアンスを感じ取ることが出来るように思う。


わたしの記憶が確かなら、わざ武王がらみで“消滅” の描写があるようだ。
そして、“消滅” は消される者にとっては悲しく、目撃するとビックリすることのようである。また、親近感を持った相手の“消滅” もまた悲しいもののようだ。果たして、“消滅” = 死 という暗示は正しいのだろうか? 一貫性があるのだろうか?

ということを考えていると、何ゆえ、私はこんなに“消滅” = 死 と理解できたのか不思議でならない。ケースバイケースで考えろといわれればそうなのだけれど、第一章のキャラクターたちとシッポウとでの温度差は無視できないところじゃないか? ・・・・え? みんな気にならない?

特に意味がなかったらケースバイケースでいいことだと思うけれど、全員生きていて欲しいので、“わざ武王に関わる” ということに意味を見出して希望を持ちたいと思うんだけど・・・・ なーん。

・・・・ 逆に、“消滅” していないほうが怖いですよね。
むむの悪夢のなかで死がいがいっぱい怖いよぉ! みたくなってる男たちとか、むむ君が呼びかけても目を覚まさない倒れてるみみみちゃんとか、わざ武王から「死んだ」 と説明される気を失ったむむとめんめんとか。

暗示じゃない死体っぽいもの以上にショッキングな表現は・・・・

* 漫画表現における身体性についての疑問は 和田慎二『スケバン刑事』 を読むと解消に向けてのヒントになるかもしれない。死を劇的に使いこなしている作品です。ギャグ描写では大岩に潰されても死なない一方、毒で死ぬ、蛇に食われて死ぬ、銃で撃たれて死ぬ、刺されて死ぬ、首を絞められて死ぬなど、様々な死が描かれる。また、死を認識させるためには、損傷の激しい身体、第三者による死の説明によってなされる。手紙と遺品という状況証拠で知らされた死というのもあったが、死を明確にされない限り生きている可能性はある。しかし、作品がそう読ませる限り読者は死を認識せざるを得ない。―― 詳しいことは『スケバン刑事』 を読んで確認してみよう!
[2012.07.28]


■ みみみ → むむ のこと(雑感)


で、まあ、みみみちゃんの話に戻るのですが。「やってきたライバルとわざぼー」 (この“とわざぼー”ってのもまた、ねえ ^^; < 二人を見比べるみみみちゃんという構図をにおわせます ) みみみちゃんの場合、この“よっかかっていこう” ってのとは違いますよね; そういう思い切りの良い感じはなく、むしろ、むむ君が出向いて、手を引っ張ってあげて、やっとよっかかる的な。この誘導の仕方にエロスを感じる・・・・ とか、そんな話は深夜のノリだから書ける話ですが(読む人は日中かも知らんのにな) 逆にエロととらないのなら、迎えに来たお母さんとお手々繋いで帰りましょうという風に見えなくもない。これじゃ、全然、ラブの話にならないじゃないですかっ!!

みみみちゃんのよっかかり方と言うのはまさに「おかーさーん」 とか「パパー」 みたいな感じで、彼氏が勉強教えてくれるからテスト期間が幸せv なんていうのとは別物ではないかと私には思えました。(そもそもこの人たちは付き合ってすらいないわけですが;) この、むむ君とみみみちゃんの相手へのムードのギャップ。・・・・ ここって、そういうギャップが埋められて、むむの想いはみみみに伝わった! という読み方もできるのでしょうか? 私にはどうにもそこまで読みとれない(--;

だって、みみみちゃん、目の前にむむ君いるのにそっちへ行かず、わざぼーと語らってるんですよ(それもわざわざ むむ がいる方向へ向き直って)。その様子をむむ君が遠巻きに眺めて、なにやらみみみちゃんへの愛ある言葉を心内語として言ってるわけです。これはギャップがあるとか、距離があるとか言わざるを得ないでしょう!


この最後のページ3コマ(ケロッグマンを除く) が二人の関係をすべて物語っているようにも思う。
[2012.01.21]


■ ラヴーマーと偶像崇拝のこと(雑談)


はあ(ため息)。ラヴさん、ねー・・・・ (^^;)

名前がキャラクターの性質を現すような命名方法をしているこの作品ですが、ラヴーマーという名前が何ともいえません; まーが由来になっている以上、まーが存在しなければ意味が成り立たない名前なんですよね。物語の文脈からは外れるけれど、ラヴさんにとってまーの存在こそが自身の存在を支えてる。つまり、存在理由を保つためにはまーが不可欠なわけ(名前の上での話をしています)

かと言って、まーの姿をしたみみみに攻撃しないなんて! お馬鹿!!

 *
ところで、この話。高校のときの朝礼拝で聞いた説教とそれに対する自分の感想文を思い出して、ちょっと苦い気持ちになります; 説教聞いたら必ず感想書いて提出という面倒な決まりがありました(そしてそれが内心にひびく)。そのときのノートが手元にあるので、そこから引用します。


聖書のとある一ページを燃やせば暖をとれます。あなたはそのページを燃やせますか? という質問をT先生はなさいました。T先生は燃やせないとおっしゃっていましたが、私なら燃やします。聖書の一ページとはいえ、所詮は紙切れです。聖書で大切なのは書かれている言葉であり、聖書を構成している紙ではありません。いつだか、偶像崇拝についてのお話がありましたが、聖書という「紙」を大切にすることは正にそれではないでしょうか。


この日の説教は、あるキリスト教徒の乗っていた船が難破してしまい、海上凍えながら助けを待っていたという実際の出来事を例にとりあげたものでした。 (戦時か戦後間もないころかの話) 他に燃やせるものがないにも拘わらずキリスト教徒は聖書を手元に残して、それを読みながら耐え忍んだそうな。


で、このT先生は牧師ですから、説教がどういう機会なのかとか、聖書について色々学ばれて「聖書を燃やす事が出来ない」 という意味について熟慮したうえで、話題として選ばれたのだろう。だから、これが単純に聖書を燃やすか燃やさないかという選択をせまる話ではなかったんじゃないかな? と今だから思う。

でも、当時わたしは信仰とはいかなるものか? とか深くは考えず、聖書を燃やしたほうが凍死を遅らせて生存確率が上がる可能性があると考えたなら、燃やしたほうがよくね? とか思ったわけです。

燃やせるものがあるのに暖をとらなかったせいで全員凍え死に聖書だけが残るってのもシュールな話じゃないか。あるいは、聖書を燃やしたおかげで生き残った信者に怒って天罰を下すような神って何さ。それで、燃やさなかった場合に生き残ったのを神のご加護とするならば、神さまは信者を生かしたいの? 殺したいの? なんだと思ってるの?

この話からは信仰を強要する脅迫的なものしか見えてこないではないか。そんな厄介な神さまなら関わらないほうがマシじゃあないか。・・・・ とか思ったのでした。

 *
さて、ラヴさんに戻りましょう。
まーさまの命令では<みみみを倒せ> ということだったのに、<まーの姿をしたみみみ> を倒すことができなかった。これは言うまでもなく、信仰するまーの意向に沿わない残念な行動をとってしまっただけでした。(や、それがあの話のオチだけどさ)

たとえ、まーの顔をしていたとしても気にせず攻撃していれば勝てたかもしれない。・・・そうだ! もし攻撃したとして、そのことについてまーが不満に思うのなら、まー自身が現れて争えばいいじゃあないか!! 

―― このように「まーが現れて争えば良かったのだ」 と言ったので、深水は“えるまー” と呼ばれた、とさ。

* 最後の一文は〔士師記6章 25-32節〕 を元ネタにしてるんだけど、分かりづらいよね。
[2010.07.04]
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