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深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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※ この記事は、私が言いたいことの整理を目的としています。メモみたいなものなので内容の重複が大分ありますが、大目に見てね! 論拠となる作中の例を具体的に用いては場を改めて記事を書くつもりです。ちゃんと確認せずに書いているので、後日意見が大幅に変わることがあるかもしれません。ネタバレがたくさんあります。

● 概略(整頓中)

わざ<武王>は武力で他を制圧した王であり勧善懲悪における勝利者が統合した世界を象徴する、とかなんとかこじつけてみるとめちゃめちゃ座りがいいゾ!(ちょっとうまいこと言ってみたかった)

武力は他に向けて行動を起こす、攻撃するためのものだ。勧善懲悪は、一方を善として他方を悪とみなし罰する物語のパターンの一つだ(リンクはWikipedia)。わざ武王は、他を攻撃することで攻撃主体である自身を善とし他を悪とみなして排除あるいは自身に統合していく。善なる武力をもつ者を王として世の中を支配するシステムそのものである。

くりかえすけれど、わざ武王の名前にひっかけて言うのはこじつけです。

狙って名づけたんならスゲェ。



『わざぼー』は、主人公が敵対勢力を融合/排除することによって得られる平和が、悪による征服/滅びとほぼ同質であり、いずれも〈受け入れがたい他者を消す〉ことだという勧善懲悪的な勝利への疑問を描いていたと読める。

まーが歯を食いしばってみみみを拒む態度でいることは、勧善懲悪的な主人公に取り込まれずに悪(=受け入れがたい他者)が個として存在し続ける希望を示している。つまり、「だれにも消えてほしくない」を実現し得るのは、目の前に存在している受け入れがたい相手からの拒否だ。まーは最終局面で希望として、みみみにアイデアを提示していたと考えると、『わざぐぅ!』のつなぎとしてスムーズに理解できる。

これを受けて、全てを託されたり請け負ったりしたみみみがみんなを拒否したことで、融合/排除されて消えた人たちも個として存在を取り戻すことが出来た、ということにしておきたい。(願望)

『わざぐぅ!』では、ももタロー、ギンタロー、まーに「おまえのやり方嫌いだ」「ハナクソウンコ」「ゴミくず/馬鹿」などと、受け入れがたいやり方への拒否を表明させ、彼らの、そうしたやり方をする相手と勝負した後の対応の違いを描いている。

ももタローはひたすら拒否して自由に戦う。技神まー以外の個々の主張を尊重していて、自分に対しても肯定的だし常に楽しそう。敵にも連勝する。

ギンタローはひたすら負けて自分に否定的になる。しかし、観衆によって肯定されることで、勧善懲悪的約束事における敗者を淘汰する思想を回避する。

まーは『わざぼー』の頃と同様に勧善懲悪的だが立場が異なる。融合/排除する支配者(勝利者)側から前作ラストで融合される側にまわったまま、今度は排除されそうになって、技々姉弟への積年の恨みによる殺意を表明する。

まーをおびやかしているのは勧善懲悪的勝利の支配システムによって集団が一つになったものだ。集団の核となるのが主人公であり、まーは悪だ。〈主人公集団による融合〉〈主人公集団からの排除〉によって、悪である彼が集団の中で個として存在を肯定されずに消されてしまわないための戦いとしてもみることができる。

実は、勧善懲悪的勝利の支配システムによって集団を一つにする主人公に該当するのは、わざ武王でもあった。まーはわざ武王が集団を統合するための犠牲者となる。

犠牲者になる、というのがどういうことかはもうちょっと考えよう。


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* * * *
● まーさま、消えない!

ここのブログでおなじみの『わざぐぅ!』の<まーさま>こと技神まーは、裏血まタローに化けている間は無表情で何かにつけて反応し聞こえない声でつぶやく。正体を明かして自分の目的を志す態度を他者に向けはっきりした言葉や暴力によって発露するも、主人公・ももタローに弾き飛ばされてしまう。最終決戦では、その怨念を「殺してやる」という殺意によって実行した。

彼の行動はいかにも悪役であり、主人公に対峙する存在として立ち現れる。主に男児をターゲットにした児童漫画誌において、その存在については改心(主人公が否定する悪をはたらかない、友好的に振る舞う、主人公の助けが必要なほど無力化し依存する)か排除かが迫られがちというのが私の見識である※1

いわゆる勧善懲悪であるが、主人公側からのアプローチとしての排除も、悪役からのレスポンスとしての改心も〈わかりあえない他者を消すこと〉といえる。

『わざぼー』『わざぐぅ!』はそういった結果を迫らない。

前作『わざぼー』では、主人公・みみみによって「だれにも消えてほしくない」という思想を提示して排除の道を否定した。また、まーにみみみを拒否させた※2

みみみとまーが和解しなかった結末はなにをもたらしたか?

「誰も消さない(改心による融合や排除によって、他者を消さない)」が実現可能となり、『わざぐぅ!』では「みみみに意志を託して(=融合して)」死んだ(消えた)はずのむむやめんめんも再び分離したと考えると納得がいく気がする。

『わざぐぅ!』は、前作で描いてきた〈勝負で負けたら消えること、相手を肯定した人は消えてしまうこと〉への疑問に対して、ラストでみみみを拒否して消えなかった技神まーに示される<消えないための希望>を引き継いでいたように思う。主人公・ももタローとライバル・ギンタローの衝突が「お前の戦いかた、嫌いだ」だったこと。まーが他人の考え方に対し「ゴミくず」「馬鹿」と罵り、排他的に振舞ったため、ももタローが怒ったことなどから、この作品が〈自分の嫌いなやり方をする相手への対応について〉がテーマのひとつだっただろう、とは言えそうではないか。

まーの顛末について収まり良く解釈しようという意地を張って宣言すれば、〈自分の嫌いなやり方をする相手を拒否すること〉は消えたくない者にとっても、誰にも消えてほしくないという者にとっても〈希望〉なのだ。技神まーがみみみに心を開かない結末は絶望的なことのようでもあったけれど、それは、希望でもあるんだよ……きっと!


※1 女児向けの作品でも、例えばプリキュアのような美少女戦士が活躍する作品も悪は排除か改心(キュアされる)か、という末路を辿るように思う。
※2 技神まーはみみみの「一緒に逃げよう」という言葉に感銘をうけた気配を見せるが、歯を食いしばって拒絶的な態度を表す。自力で起き上がれないほど消耗している彼はみみみの肩にもたれながら、城の崩落には間に合わないと彼女の主張を挫くようなことを言う。このシーンはいくつかの解釈が可能と思われるが、ここではまーはみみみの主張を受け入れない拒否の態度を示していると解釈した。主人公を受け入れない悪が〈他者〉として存在し続けるのだ。

参考までに、似たような表現として『エヴァンゲリオン』旧劇場版でアスカがシンジを拒絶して個別性を保った、という例をあげておく。なお、エヴァについては他サイトの解説を参照されたい。

Wikipediaの解説とか

こことか
http://homepage3.nifty.com/mana/main-story3.htm

人類補完計画は勧善懲悪とは別もの。


● まーさま、負けない!

『わざぼー』の技神まーの初登場は見開きを血のりで染め上げる残虐ぶりが印象的だ。彼を過激な行動に駆り立てるその思惑については、ここでも確認したとおりで、勝利を誇示することが強さであり、自分に従わない者は消し去る。強い力で他者を従わせようとするのは〈イチバン〉になりたいからである。

イチバンという言葉に具体性はないが、曰く〈世界で誰よりもすぐれた〉〈最強〉であることの証のように言っている。

その例が、彼の名前のとおり神みたいなものかもしれないし、あるいは彼が持つ武器・わざ武王の名前にある王っぽいものかもしれない。どちらも他をひれ伏させ従わせる頂点に君臨する者の象徴として見ることはできよう。

果たして、他をひれ伏させることが、すぐれていることや最強を証明するものなのかということはひとまず置く。これは、「だれかのチカラをかりる」という技神まーの主張なので、疑問をさしはさんでも仕方がない。

『わざぼー』において、彼はその主張を押し通してある程度の地位を築いていたことが全6巻には描かれていた。



この作品における勝負とは何かをここで一度確認しておきたい。

この作品(『わざぼー』)では、勝負はしばしば、相手と主張を衝突させるものとして描かれている。相手の力量に太刀打ちできなくなったら負けというのは力比べの勝負と変らない。くわえて、これは同時に相手の主張を認めたり、納得したり、反論できないという表明でもある。

みみみはむむに納得させられて敗れている[2巻]し、むむはみみみに対して2回ぐらい負けを宣言している[2巻、3巻]し、めんめんも彼女の主張を認めて助力を求めている[5巻]。
(思いつくのは、わざぼー使い同士の戦いだけだが)

わざぼーは使用者が声に発したアイデアを技の名前として聞きとり、発動する武器だ。個々に主張や意見をもつ使用者がアイデアを発するのだから、彼らがアイデアをぶつけ合う戦いには彼らの主張や意見が反映されていると考えることは可能だろう。

最もたる例はこれだ。わざぼー使い同士であるまーとみみみは互いの主張を衝突させていた。

このように、〈わざぼー使いの強さ〉は主張(意見)を押し通すための説得力の尺度
として言いかえることができそうだ。

勝利者になるためには、説得力の強さによって相手に負け(主張を認める、納得する、反論不能)を認めさせなければならない。これは、勝負の相手という〈他者〉によって〈勝利者〉として肯定されるということでもある。

勝利の決定権は相手にある。だから、〈相手に逆らわれること〉が勝利者になる妨げにもなるのだ。


ここまでを確認すると、

まーの


  ・ だれかのチカラをかりてイチバンになる
  ・ 勝利を誇示して他者を従わせる
  ・ 他者が従わないと焦るし、怒る
  ・ 従わない他者は消す


という態度について理解が明白になるのではないか。

彼は自身の〈だれかのチカラをかりてイチバンになる〉という主張の通りに〈だれかに〉主張を肯定されようとしている。また、彼のこのような主張が勝利するもの(認められるもの)であることを絶対とするために、それを誇示したり、従わない者を消したりする。彼は自分を勝利者として肯定する他者だけを必要としている。また、そのような他者は彼にとって道具みたいなものである。

そのような主張をもち勝負を規定している。
その規定にのっとって、まーは相手を勝利者にしないために自分の負けは絶対に認めない

力量が伴わなかった場合でも認めない。客観的に負けと判定されそうな状況でも、わざ武王を使って態度をうやむやにする。※3 
『わざぼー』6巻で物語自体が終了しても、カバーの折り返しの態度である。認めなければ負けにならないということであれば、シリーズ両作品通して彼の負けは描かれていないのかもしれない。



※3 わざぼーはどんな主張でも通すことを可能にしうる武器なので、融通が利かないとか、頑固とかは相手を圧倒する強力なこだわりとして威力を発揮するものと思われる。わざ武王は<勝利者>でありたいまーの頑なな態度と共に出現する。もう出現すること自体がまーの攻撃(敵の気を逸らす)として機能してるから、「わざ武王を召喚する」というまーの特殊能力なんじゃないかな……と思いたくなる。



● 融合・排除/征服・滅び

まーの自分を勝利者として肯定する他者のみ存在を認める世界は、あたかも、主人公と対立する悪を融合(改心させる)/排除していくことで描かれる平和に似通う。そのような平和はわざ武王および技神まーが求めている世界征服や滅びがもたらすものとそう変わらないともいえる。

つまり、例に漏れないハッピーエンドにむかう活躍を主人公・みみみがする限り、やり方の違いはあるにせよ〈勝利者を肯定しない他者を消す〉という点でわざ武王に象徴される〈支配〉と同じものとなる。

わざ武王は魔の約束によって願いをかなえるという条件と引き換えに契約者に自分の命令に従わせ、成功させられなかった者を消すという支配を形作っていた。まーも同じような方法で、その力を肯定する者が部下として従っているらしいこと、従わないものは消されることは、以前確認した。

他者の示す主張(命令、やり方)を肯定したら、
その他者に従わなければならないことをシステム化したものが支配だ。

これは、先に確認した『わざぼー』における勝負の規定(まーが推奨している規定でもある)にも当てはめて理解することができる。

相手に負けた(主張を認める、納得する、反論不能)者は、
勝利者の主張を説得力のあるものとして認めることになる。

だから、勝利者は支配者とほぼ同義なのだ。

これは、みみみによって示されている。
みみみは契約を持ち出して支配者として君臨しようとはしていない。だが、彼女もむむとめんめんに肯定される形で勝利し、彼らを仲間にしている。そして、彼女を庇って殺された2人のわざぼーはみみみのわざぼーと合体して、3つの顔をもつ巨大なものとなった。

このわざぼーの姿にも象徴されるように、みみみはむむやめんめんを融合=征服してしまった。

また、作品の第一部でみみみはわざ武王とのはじめての一騎打ちで、共闘の最中に敗れたむむのかたき討ちのようにして「滅ビーム」という滅びを願う技をわざ武王にあびせたために、彼女も自分と同類であるとわざ武王を喜ばせている。

自らを肯定し得る他者を融合し、対立する相手の滅びを願う限り主人公も悪も大差はない。

このようなことが起こってしまうのは、
支配のシステムと勝負の規定が癒着した約束事のためである。



● 勝利は正しさを規定しない

『わざぼー』において、勝利と支配はほぼ同義のものだった。
いわゆる勧善懲悪的価値観が勝負の根底にあった。

勝者の主張は肯定しなければならない絶対のものとなり、自分の負けを受け入れた/相手を勝利者として認めた敗者は、相手の主張に自身の主張が淘汰あるいは融合されることによって消滅するという約束事が想定されている。

技神まーはこの約束事を厳密に守り、他者を融合(征服)したり消したりして〈だれよりもすぐれた〉〈最強〉の〈イチバン〉になろうとしていたのである。

この約束事がある限りすぐれた主張は絶対にひとつだけなのだ。

まーが負けを認めたがらないのは、自身の主張が淘汰され消滅、あるいは改心して勝者の主張に自分が取り込まれることへの拒否だったと理解することは可能だろう。

そうはなりたくない、まーにはまーの主張があるのだ。



『わざぐぅ!』では、前作で描いてきた勝利=支配への疑問を解消するために、イチバンすぐれた絶対の主張を勝負によって決定していく、という約束事が解体された。勝負はあくまで力量を競うものとして描きなおしている

また、


  「おまえのやりかた、嫌いだ」(ももタロー)
  「こだわりなんてハナクソウンコ」(ギンタロー)
  「ゴミくず」「馬鹿」(技神まー)


といった具合に、メインキャラクターは自分と異なる主張や意見を持つ他者に対する拒否をあらわにしている。

けれども、主人公・ももタローとライバル・ギンタローの戦いでは、そのような相手を悪とみなして討伐する勧善懲悪的な戦いを避けている。あるいは、そのシステムによって負けたほうが勝った方に同調することにはならない。

異なる主張(意見、やり方)の相手=嫌いなやり方をする相手がいることを肯定する〈個々の主張を尊重した勝負〉となっている。

2人の最終決戦[6巻]を確認してみると、ギンタローはももタローのやり方に圧倒されて負けを認めている。「よかったな勝てて」「負けたワイは、クズや」と、自分を否定してしまう。

もし、ここで勝者であるももタローがギンタローを言い諭すやりとりをした場合、やはり敗者が勝者を肯定すべきものとして受け入れる構図になる。ギンタローが持ち直すために観衆からの肯定を挿入しているのは、それを避ける意図があっただろう。

勝負する当事者ではなく、外野のその他大勢から両者が肯定されるという状況によって、勝者のやり方も敗者のやり方も「かっこいい」ものとして残るのだ。

第三者の平等な目が悪を作らない。


<途中>

急ぎ足での補足と所感:
ももタローVSギンタロー、一回目の戦い(バトルクリフ準決勝)を負えて、ももタローがギンタローと勝負できたこと自体をよろこぶシーンがあったはず。勝者が敗者を肯定すること、第三者が戦った両者を肯定するということを描いて敗者も肯定されるべきものであるという。また、本文中でとりあげた二人との勝負で負けた者たちでもある聴衆によって、勝者を肯定させている。

ももタロー、ギンタロー、他バトルクリフの挑戦者たちというコミュニティにおいては、勝者も敗者も互いを肯定し合う〈個々の主張を尊重した勝負〉を実現することができていた。そうすることのコンセンサスがあるから。

それがない技神まーはバトルクリフコミュニティから排除される。みみみの述懐のように、まーが「おまえと戦いたい(その手段としての色々の行動)」という気持ちだけならば、いくらコミュニティ内に平和を築いていたとしても一部参加者をハブること、ハブられたまーが殺意をあらわすこと、というのは考えるべき課題として見ていきたいこと。


参考までに(外部サイト)

  ・ ポリティカル・コレクトネスにおける「模範的なマイノリティ」という問題
「模範的なマイノリティであることが、承認と成功につながる」という物語の裏側には、「構造的差別がサクセスストーリーとすり替えられること」「“模範性”はマジョリティ側から求められるものであること」という構造が隠れているのです。
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