深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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ほんとは↓の記事につなげて入れるつもりだったのだけれど、長くなりすぎたので分けました。内容はあいかわらず「とらわれたみみみとわざぼー」および、まーに関する話題です。
以前より散々まーはさみしんぼうネタを書いてきましたが、
友人とやりとりするうちにふと、疑問がわきました。
<寂しいといえる根拠(そう読ませるための描写)が作中にあるのか?>
―― さて、どうなんでしょう?
以前より散々まーはさみしんぼうネタを書いてきましたが、
友人とやりとりするうちにふと、疑問がわきました。
<寂しいといえる根拠(そう読ませるための描写)が作中にあるのか?>
―― さて、どうなんでしょう?
* * *
先日「とらわれたみみみとわざぼー」を細かく読もうという記事を書いたのですが、構造上この話はまーが他のわざぼー使い3人から孤立するように描かれているらしいということを言いました。
そもそも、まーの企画したあのゲームが「みみみ(女)をめぐる男たちの戦い」のようなものだったらしいのに、その楽しげな演出が茶番とばかりに裏切り者のめんめん君からネタバレされてしまう。そのため、「玉を成長させる、あるいは、まーが手に入れるための策略」と化してしまった。
…… ここで一度おことわりしますが、ページにまとめた記事とも一つ下の記事ともだいぶ言っていることが変わっています。ここ数日で私の読み方が変わってきたため、解釈も変わっております; 混乱を招き申し訳ありませんが、どうかついて来てください!お願いします(--;)<ゴメンナサイ
さて、
まーが本来「楽しみたい」ゲームとは…… ごっこ遊びみたいなものなんですよね。
怪物にさらわれた姫を救出しようと戦士たちが立ち向かうというようなストーリーに沿って、それぞれに役割を設定しているっぽい。
・ むむ・めんめん<戦士>
・ ゴルデン・シルバン<怪物>
・ みみみ<姫> …… みたいな。
それを高みで見物しようというのが、まーの楽しみたかったゲームだと思われます。
みみみをとらえたことについて、人質にしたわけではない、というのは、みみみを強制的に<姫>役に付かせるためであり、そうすれば、むむとめんめんも芋づる式に<戦士>の役におさまる。そんなふうに強引にゲームに巻き込もうとしていたのではなかろうか。
『 まーは人質をとったのか?』 について、これは<みみみがまーにとらわれる> という出来事を誰の主観に沿って理解するかによると思う。もし、まーのゲームを楽しみたいという主観に従うのであれば、あくまでゲームを実施するための強制的な手段で<ゲームに巻き込んだ> という言い方ができるように思う。一方で、みみみたちのようにまーの行いが理解できず不満しかない場合は<人質をとられて従わざるをえなかった> という風に考えるのではないか。
作品の主人公はみみみなので、それに引きずられて事態を言おうとすれば<みみみは人質にされた>ということになるけれど、作品は基本的には第三者の視点で描かれているので、誰の主観に沿って解釈してもよいと思われます。(とはいえ、この話だけなぜかみみみの一人称ではじまるんだよな……)―― まーさまと楽しくなりたい人は<みみみをとらえゲームに巻き込んだ> と理解するほうが、もっと楽しくなれるはず!!
…… や、結局ゲームは成立しなくなっちゃうんだけれど。
追記:
まーはみみみに危害を加えるとは言っていないし、閉じ込めただけだということも考慮にいれたい)
*
そもそもこの記事が何を言わんとしていたのか見失いかけているのですが、
<寂しいといえる根拠(そう読ませるための描写)が作中にあるのか?>
寂しいと感じさせる要素はあると思うけれど、たぶん、読者が自分がその状況になってしまったら感じるであろう「寂しさ」をまーに投影しているだけのように思う。実際彼が寂しいと感じたかどうかはわからないけれど、彼を通して寂しい状況は多く描かれている。
上に書いたように、自分が企画したゲームが破綻してしまったり、作品外の解釈の次元になるけれど彼の主観に沿って事態を理解してもらえないために「人質をとった」などと言われてしまうのもそうだし、細かく見てみるとどうもまーの意図に人が従わないせいで孤立しつつあるようだとも言った。物語はまーの思い通りにならないように描いている。
この思い通りにならない様子を見て、自分がこの状況になったら寂しかろうという気持ちを誘発するように思うのだけれど、みみみたちから「さびしかったのか」を言われても、まーは「ちげーよ」と否定している。この後、彼を裏切っためんめんにきつく言う描写があり、みみみたちとの対立が明確になるにつれ、まーは孤立していく。どうも人間関係上のトラブルがあるように見受けられる。そこで、ぶり返して、「さみしかったのか」のやり取りのまーの否定について考えてしまう。
A うらぎり者にきつく言ったのは、さびしかった“わけではない”(否定は本心)
B うらぎり者にきつく言ったのは、さびしかった“から”(否定したのは感情の矛盾)
額面通りうけとるか、本心とは裏腹を言っているととるか。
先に言ったように、「まーは寂しい」と感じるそもそもの要因が読者の自己投影ならば、それが作中人物の心情であると理解することはできない。数多いる読者のうち一人の感情が作品における絶対ではないし、読者一人の感情を作品が描いているという判断は非論理的です。
だから、まーが寂しいと感じていることが描写されているか? をさがしているのだけれど……
一度寂しいと断定するのを踏みとどまって行動をあげつらってみる。
・ 組織をつくってみみみに進撃した
・ 自分の一味から離れためんめんを「うらぎり者」と言った
・ 「怪物のちからをかり」る(=「だれかのチカラをかりる」)
・ 「オレといっしょにくたばるがいい」と言ってみみみを道連れにしようとする
これらは彼が“一人だけで物事を処理しようとしない”という指摘になります。みみみの「だれかのチカラをかりる」・・・「なさけない」というネームとも重なりますので、寂しいかどうかは別として、“まーは一人でできない人として描かれている”と言えます。
別の見方をすれば、まーは“一人でできないことをやりたがる人物”だともいえる。周囲を巻き込んで自分の目的を叶えるということに真正面から向き合って、正直に振舞っていたんじゃないか。また、彼は演出を作ることを好んでいるようなので、それをゲームと呼ぶのかもしれない。しかもゲームは「楽し」むものだとも言っている。
一人でできない楽しいゲームを作ってみんなを巻き込みたい人のようでもあります。
『わざぼー』では自分がすぐれたイチバンに君臨することに躍起になっている様子が描かれており、目的に携わる人物に対しては傍若無人が過ぎました。しかし、ヘビィを倒すのにチャオチャオごと手にかけるようなことはしない人です。(そういえば、人質をとったセコイ奴ってヘビィじゃん)
…… まー っていったいどんな人なんだろう!!
未だに興味を誘うわくわく感がありますよね。
先日「とらわれたみみみとわざぼー」を細かく読もうという記事を書いたのですが、構造上この話はまーが他のわざぼー使い3人から孤立するように描かれているらしいということを言いました。
そもそも、まーの企画したあのゲームが「みみみ(女)をめぐる男たちの戦い」のようなものだったらしいのに、その楽しげな演出が茶番とばかりに裏切り者のめんめん君からネタバレされてしまう。そのため、「玉を成長させる、あるいは、まーが手に入れるための策略」と化してしまった。
…… ここで一度おことわりしますが、ページにまとめた記事とも一つ下の記事ともだいぶ言っていることが変わっています。ここ数日で私の読み方が変わってきたため、解釈も変わっております; 混乱を招き申し訳ありませんが、どうかついて来てください!お願いします(--;)<ゴメンナサイ
さて、
まーが本来「楽しみたい」ゲームとは…… ごっこ遊びみたいなものなんですよね。
怪物にさらわれた姫を救出しようと戦士たちが立ち向かうというようなストーリーに沿って、それぞれに役割を設定しているっぽい。
・ むむ・めんめん<戦士>
・ ゴルデン・シルバン<怪物>
・ みみみ<姫> …… みたいな。
それを高みで見物しようというのが、まーの楽しみたかったゲームだと思われます。
みみみをとらえたことについて、人質にしたわけではない、というのは、みみみを強制的に<姫>役に付かせるためであり、そうすれば、むむとめんめんも芋づる式に<戦士>の役におさまる。そんなふうに強引にゲームに巻き込もうとしていたのではなかろうか。
『 まーは人質をとったのか?』 について、これは<みみみがまーにとらわれる> という出来事を誰の主観に沿って理解するかによると思う。もし、まーのゲームを楽しみたいという主観に従うのであれば、あくまでゲームを実施するための強制的な手段で<ゲームに巻き込んだ> という言い方ができるように思う。一方で、みみみたちのようにまーの行いが理解できず不満しかない場合は<人質をとられて従わざるをえなかった> という風に考えるのではないか。
作品の主人公はみみみなので、それに引きずられて事態を言おうとすれば<みみみは人質にされた>ということになるけれど、作品は基本的には第三者の視点で描かれているので、誰の主観に沿って解釈してもよいと思われます。(とはいえ、この話だけなぜかみみみの一人称ではじまるんだよな……)―― まーさまと楽しくなりたい人は<みみみをとらえゲームに巻き込んだ> と理解するほうが、もっと楽しくなれるはず!!
…… や、結局ゲームは成立しなくなっちゃうんだけれど。
追記:
まーはみみみに危害を加えるとは言っていないし、閉じ込めただけだということも考慮にいれたい)
*
そもそもこの記事が何を言わんとしていたのか見失いかけているのですが、
<寂しいといえる根拠(そう読ませるための描写)が作中にあるのか?>
寂しいと感じさせる要素はあると思うけれど、たぶん、読者が自分がその状況になってしまったら感じるであろう「寂しさ」をまーに投影しているだけのように思う。実際彼が寂しいと感じたかどうかはわからないけれど、彼を通して寂しい状況は多く描かれている。
上に書いたように、自分が企画したゲームが破綻してしまったり、作品外の解釈の次元になるけれど彼の主観に沿って事態を理解してもらえないために「人質をとった」などと言われてしまうのもそうだし、細かく見てみるとどうもまーの意図に人が従わないせいで孤立しつつあるようだとも言った。物語はまーの思い通りにならないように描いている。
この思い通りにならない様子を見て、自分がこの状況になったら寂しかろうという気持ちを誘発するように思うのだけれど、みみみたちから「さびしかったのか」を言われても、まーは「ちげーよ」と否定している。この後、彼を裏切っためんめんにきつく言う描写があり、みみみたちとの対立が明確になるにつれ、まーは孤立していく。どうも人間関係上のトラブルがあるように見受けられる。そこで、ぶり返して、「さみしかったのか」のやり取りのまーの否定について考えてしまう。
A うらぎり者にきつく言ったのは、さびしかった“わけではない”(否定は本心)
B うらぎり者にきつく言ったのは、さびしかった“から”(否定したのは感情の矛盾)
額面通りうけとるか、本心とは裏腹を言っているととるか。
先に言ったように、「まーは寂しい」と感じるそもそもの要因が読者の自己投影ならば、それが作中人物の心情であると理解することはできない。数多いる読者のうち一人の感情が作品における絶対ではないし、読者一人の感情を作品が描いているという判断は非論理的です。
だから、まーが寂しいと感じていることが描写されているか? をさがしているのだけれど……
一度寂しいと断定するのを踏みとどまって行動をあげつらってみる。
・ 組織をつくってみみみに進撃した
・ 自分の一味から離れためんめんを「うらぎり者」と言った
・ 「怪物のちからをかり」る(=「だれかのチカラをかりる」)
・ 「オレといっしょにくたばるがいい」と言ってみみみを道連れにしようとする
これらは彼が“一人だけで物事を処理しようとしない”という指摘になります。みみみの「だれかのチカラをかりる」・・・「なさけない」というネームとも重なりますので、寂しいかどうかは別として、“まーは一人でできない人として描かれている”と言えます。
別の見方をすれば、まーは“一人でできないことをやりたがる人物”だともいえる。周囲を巻き込んで自分の目的を叶えるということに真正面から向き合って、正直に振舞っていたんじゃないか。また、彼は演出を作ることを好んでいるようなので、それをゲームと呼ぶのかもしれない。しかもゲームは「楽し」むものだとも言っている。
一人でできない楽しいゲームを作ってみんなを巻き込みたい人のようでもあります。
『わざぼー』では自分がすぐれたイチバンに君臨することに躍起になっている様子が描かれており、目的に携わる人物に対しては傍若無人が過ぎました。しかし、ヘビィを倒すのにチャオチャオごと手にかけるようなことはしない人です。(そういえば、人質をとったセコイ奴ってヘビィじゃん)
…… まー っていったいどんな人なんだろう!!
未だに興味を誘うわくわく感がありますよね。
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