深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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中休み。2-3から2-5へ教室を移動する。突き当りを曲がって左手側にある5組の教室は、景色が寸断されて、継ぎ足された別世界。まるでゲームの画面がスクロールされる端っこの次の画面みたいだと思っていた。イベントが待ち構えているかもしれない、とか、新しいマップへの分岐点かもしれないとか。次の授業の教室は未来に開かれた場所にある。
希望に向けて生き急いでいたわたしは、移動時間を短縮するために黒板側の扉のほうから3組を出た。廊下はフロア中の教室の笑い声が大音量で響いている。相変わらず、何て楽しそうなんだろう、とさびしくなる。そのけたたましい音が眩しく感じて、私はとても目を開けていられなかった。
目を瞑って廊下を歩いた。廊下がどれぐらいの長さがあるのか、検討がつかない。けれど、いつまでもいつまでも眩しくて仕方が無かった。少しでも暗いほうを求めて教室とは反対の壁際によろめけば窓ガラスがひやりと頬に張り付く。かすかな衝撃。外は雨が降っている。私は眩しさに耐えながら目を細く開け、暗雲と降りしきる雨ばかりを景色にしようと求めた。
空が光る。轟音が鳴る。
・・・冷たい。
気が付けば口の中がジャリで一杯だった。
わたしは窓から外に落ちた。校庭の砂と雨水は苦いことこのうえない。けれど、私はこれがきっと何かに効く薬だと信じて飲み込んだ。良薬口に苦しって言うでしょう?
つまらない冗談だった。
うふふふふ・・・
自然に笑がこみ上げてきた事がただただ嬉しかった。
・ ・ ・ ・ ・ ・
アガメムノンは保健室の仕切りのカーテンの中から笑い声が聞こえてきたので、そこにいる生徒は病気なのだと思った。まさか保健の先生までもが生徒の笑いがなければ死んでしまう、なんてことがあったら、笑うことも出来ないほど具合の悪い生徒を一体誰が看護するというのか。しかし、笑う生徒が保健室のベッドに横たわっている、と思われる。―― そのベッドを使っている生徒が漫画を読んだり、誰か引き入れて談笑していたり、そういうことがなければの話だけれど。
カーテンの裾から見える上履きは一人分。
「アガメムノン君はどうして保健室に来たの?」
クラスと出席番号と名前を言ってからすぐに訊かれる。無愛想なアガメムノンに血相を変える様子もないので、やはり、保険の先生は死なないのだ、と思った。保健の先生は20代後半から30代半ばぐらいの若い女の先生で、長い髪をうしろに束ねている。前髪は左右に振り分けてそれぞれ落ちてこないようにピンで留めていた。メガネはかけていない。先生の表情は眉の形から、口の端の筋肉から、遮られることなく確認できる。
「具合が悪いからです」
「どんな風に具合が悪いの?」
「咳が出ます」
アガメムノンは咄嗟に嘘をついた。咳が出るのではなく、笑えないのだ。
「咳なんてしてないじゃない」
すぐにばれる。「それに」と保健の先生は言葉を続けて「あなた、声がかれてるようでもないし。・・・最近は笑いすぎて声がかれてる子を何人か診たけれど、聞く限りではアガメムノン君は大丈夫そうじゃない。・・・ちょっとこっち向いて口を開けて」
先生は言われたとおりにしようとしないアガメムノンの顎を掴んで顔を自分のほうへ向けさせた。それから、舌まで出して「あ゛」と言ってみせながら口をあけるよう促した。しぶしぶ口をあけたアガメムノンの舌をすかさず器具で押さえつけて、喉をライトで照らす。生ぬるい熱気を喉に感じる。先生、苦しい。吐く。舌がヘラのような平たい金属の器具に反応して唾液が出てきた。アガメムノンは飲み込もうとする。口を閉じようとした、その一瞬に先生は器具を抜き取ったのでアガメムノンは咳き込むために背を丸める事が出来た。―― ゲホッゲホッ!!
「あなたの喉は大丈夫よ。腫れてないし。今の咳で少し痛めたかもしれないけれど・・・」
先生は器具を使用済みの瓶に立てながら冷静に言うので、アガメムノンはこの先生をヒトデナシだと思った。恨めしげな眼差しを先生には向けず、保健室の床へ注いだ。さっきのひと悶着でたれた自分の涎を見つめる。下を向く何やら陰気な様子の生徒に先生はまたも無情な言葉を浴びせかける。
「あなた、なんともないんなら授業はサボらずに教室へ帰りなさい」
ダメだ。俺は先生を殺してしまう!
アガメムノンは床に落とした視線を上げられないまま首を振った。このまま教室に突っ返されるワケには行かない。
黙って椅子に腰掛けたままのアガメムノンなどまるでその場にいないかのような素振りで、先生は机の箱からティッシュを一枚とりだすと席を立って前屈の姿勢で涎をふき取った。ティッシュは先生の椅子の足元にある小型のゴミ箱の中に放り込まれた。
「さ、帰りなさい」
先生の見下ろす声にアガメムノンは首を振った。やはり、黙ったまま下を向いて。
しばし沈黙。
―― 笑い声が聞こえる。カーテンの奥の生徒はいままでずっと笑い続けていたのだ。喉のかすれが入り混じり、時おり咳き込む音も聞こえた。対面する先生と生徒のやり取りから外野にはずれて笑い声は響いている。アガメムノンはそのけたたましさが気にならないわけではないが、どうでもよかった。その生徒のことよりも、自身がこの後どうなってしまうのか。そればかりが気になって表情が硬くなる。口を開くことも出来ない。こんな自分では先生を、人を、殺してしまうかもしれないのである。アガメムノンは自分が人殺しになることばかりを考えていた。
「それじゃどうする? 仮病を使って家に帰る? それとも、保健室で少し休んでいく?」
「え」
アガメムノンはやっと顔を上げて先生を見た。先生はすでに対面の席に座っており、感情の読み取れない真剣な眼差しをアガメムノンに注いでいた。意外な反応だ…… などという考えが一瞬アガメムノンの中に起こったりもしたが、流石に保健の先生が身体の不調を感じて行くべき場所と認識されている“保健室” の神聖さを知らないわけがない。変調を訴えようとしてやってきたと思しい生徒をみすみす見殺しにするとも思えないので、ようするに今までのやりとりは純粋なサボリの生徒かどうかを見定めよう、ということだったのだろう。
「先生、いいんですか?」
それでも聞き返さずにはいられず、我ながら情けない調子だと思いながらアガメムノンは尋ねるのだけれど。
しかし、先生は慈悲深い様子で励ます調子ではなく、相変わらずの真剣な無表情のままアガメムノンを見据えていた。
「あなたのような生徒がいるのは困ったことだわ・・・」
どういうことだろう。
「仕方が無いわね。面白くもないのに笑い続けるって事は苦行に違いないもの」
アガメムノンはどう返事をしたら良いのか分からなかった。
「あなたみたいな子がでてくることは誰もが予測はしていたけれど…… “思いやり” の力もその程度だということね。あなたたちの可能性に大人はみんな賭けていたんだけれど、でも、やっぱり人の気持ちや考え方や感情をそれひとつだけで片付けることなんてはじめから無理な話だった」
「“思いやり” …… ?」
「そう、あなたは“思いやり” の矛先が少しみんなと違っていたのよ」
「矛先?」
「あなたは担任の…… えーと、フローラル先生の命を救いたい? それとも……」
「俺は先生を殺したくない」
「どうして?」
アガメムノンは思いを巡らせた。どうして先生を殺したくないんだろう? ふと、数日前のカイとの会話を思い出す。カイは言っていた。
「『自分が笑わなかったせいで人が死ぬなんて堪えられないんだ。見殺しには出来ないんだ』…… だから、俺は、先生が死んだら――」
どうしても言葉を続けられない。自分の“思いやり” の矛先はきっと間違っている、ということがはっきりしてしまうような気がした。いや、はっきりするのだ。それを、そのことを、決して肯定的に見ている様子ではない保険の先生の前で告白したら、自分は一体どうなってしまうのだろう。
これ以上無駄に口を開いているとまた涎がたれそうなので、ゆっくりと口を閉じていった。
閉口するアガメムノンに先生はピシャリと言ってのける。
「人殺しになりたくないから、でしょ?」
アガメムノンは唾を飲み込んだ。ゴクン。
「いいのよ、言ってしまいなさい。結局は誰でもそこへいくのよ。…… 安心しなさい。決してあなたはおかしくなんてないのよ」
先生の目は穏やかだった。アガメムノンは少し混乱していた。
「え? だってさっき俺がみんなと違っているって、“思いやり” の矛先が違うって……」
「誰だって人殺しにはなりたくないわ。問題は、人殺しになりたくないかじゃなくて、殺す相手の事が見えているかどうかってことなの。あなたは先生に“思いやり” はある?」
アガメムノンは自然に首を振った。
「…… ほら、やっぱりね。あなたは先生の挙動の一つ一つに興味がないでしょ? だから面白くないのよ。いくら先生が面白くなくたって、たかが面白くないという理由で死んでしまってはかわいそうだと思わない? 先生は真っ当に職務を果たしているの。授業の中身はあなたたちのためのものなのよ。…… なんて、押し付けがましいことを言ったら、あなたたちはいつも苦々しい反応を返すけれどね」
アガメムノンは確かにムカついた。
「でも、それとこれとは別よ。あなたは自分が面白くないという理由だけで殺されたら嫌じゃない? 悲しくない?」
「確かに嫌だ」
「そんな理由で死んでしまうってことは正しくないのよ」
そうなのだろうか。アガメムノンは少し考え込んでしまう。
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