忍者ブログ
深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

(旧題:今月の「わざぼー」感想)
火曜日をお待ちくださいと言いつつ、結構小出しに感想を吐き出してました。

下の記事
 ・ なま小屋
 ・ 消去法的発想ですが。
 ・ よし、そんなら、地獄に行ってやろう。

(最後のはほんとに触りだけだな;)の記事およびコメント欄でごちゃごちゃ言っているのも、一応、今月号の感想になってます。過去の感想の繰り返しもあるかもしれませんが、よろしければご参照ください。

基本的に好き勝手読んでます。
作中の流れが面白おかしくなるように、いろいろ並べてつなげてます。



―― 以下、縮めときます。
急には本編感想には行かないので、この記事に直接来ちゃった人でも多分大丈夫。

 * * *

管理人のやってることが理解できない!という人は読まないでね。
楽しくないよ。

拍手


 * * * *

■ 「All right,then,I'll go to hell.」 (よし、そんなら、地獄にいってやろう)

私の愛するマーク・トウェインさんの超有名作品『ハックルベリー・フィンの冒険』より、共に旅をしてきた黒人奴隷のジムが農場に収容されてしまった。その脱出を手助けしようと決心した時のハックの台詞です。

『ハックルベリー・フィンの冒険』を読んだことのない方もいると思いますので、ちょっと手抜きをして他人様の読みを参考にしながら内容を紹介させていただきます。――ひとまず、一言でまとめると“「自由を求める」少年・ハックと黒人奴隷・ジムの逃亡を描いた物語”という風にいえそうです。ジムは自分の持ち主の家を逃げ出し、ハックは誰かに干渉されない浮浪児に戻ろうと養母や父親から逃亡します。逃げてきた者同士で一緒に旅をすることになるのですが、そのそれぞれの目的については亀井さんが言いまとめているものを(自分で言葉を考えて言うのが面倒くさいので)そのまま借用します。〔亀井俊介『ハックルベリー・フィンのアメリカ ―「自由」はどこにあるかー』(中公新書)より引用〕


  「ジムの求めるのは制度的な自由、奴隷という身分からの自由である。」
   ハックのほうは「他人や社会に束縛されない自分の存在ないし生き方」
〔「」内が引用部分〕

 
逃亡する道々二人は(主にハックが)ある「社会」のなかに紛れ込んで、その腐った部分を色々と見たり、体験したりします。(ただし、ハックがその「社会」に参加するときにはそこの社会常識がひっくりかえるような干渉はせずに“傍観をする”といったところ)・・・具体的にどういうことがあるのかは各々作品を参照いただければと思いますが、そういう体験を通してハックは「社会」に対する自分なりの考え方であったり立場というものを確立していくわけです。

物語の4分の3が経過したあたりで、ジムは行きずりになったペテン師たちに売りとばされてしまいます。ハックは、農場に収容されたジムが(ジムは逃亡奴隷なので)元の持ち主のもとに返還されるように手配するべきか、救出して逃亡させる(盗みだす)か、いうことで葛藤します。奴隷は家畜などのように財産として扱われるので持ち主から奪うというのは泥棒になります。ハックはジムが「社会」的に正しい形で持ち主に返されるべきか、「社会」的には自分が泥棒の罪を犯すことでジムを自由にしてやるかということで悩んでしまうわけです。

これは、ハックが冒険を通して獲得しつつあった「他人や社会に束縛されない自分の存在ないし生き方」を「社会」においても選ぶのか否かという重大な決心を迫られる状況でもありました。ハックとジムは「社会」から身を隠しながら旅をしてきたため、「社会」的常識で物事を判断しない限りなくフェアに近い状態でいたわけですが、ジムが奴隷として売り飛ばされたことで再び「社会」の中に引きずり込まれていくことになったのです。

ハックは旅をしながらジムを奴隷ではなく人間として認識しつつあり、その自由への欲求へも理解がありました。ジムを見捨てる事ができないという思いを実現しようと、「社会」的な倫理観などは振り払い、決心した。その言葉が「よし、そんなら、地獄にいってやろう」というわけです。――これは、神統べる正義の場所たる「天国」に対する「地獄」へ行くという、ハックの決意が当時の思想からすれば神に反逆する「悪」の立場に基づくものであることを言っています。自ら「悪」に手を染めるような恐ろしいことを決意させるほどこれまでの冒険がすさまじかったことを物語るようでもあります。


そして、
この決意が決行され、ハックは再びジムと逃亡。
二人は奴隷制度のない自由州へ逃げ延びました (完)







・・・ということにはなりません。

残りの4分の1の部分でトム・ソーヤーが現れて、(もっと色々やるのですが)持ち主が「ジムを奴隷から解放する」という内容の遺書を残して死亡していることを告げます。つまり、今までの逃亡による目的の達成としてジムの自由が実現したわけではなく、制度上の手続きによって解放が完了したというオチです。ハックはジムが収容されていた農場の家の養子にされて、逃亡以前のように「社会」に適合するように教育しなおされそうになります。

・・・もちろん、冒険の目的が達成されなかったことや、ハックが冒険を通して「地獄に行く」ような決心をしたということが無駄になってしまった、という結末に対して、≪あんまりだぁ!!!!≫という読者もいました。ヘミングウェイはこの展開について『アフリカの緑の丘』という作品の中で「まったくの嘘」などと全面否定しているらしいです。

  「すてべは虚しかった、ということになる。自由の探求というテーマから見れば
   『ハックルベリー・フィンの冒険』は暗澹たる内容の作品ということにもなる。」
〔「」内引用、改行はブログにあわせて私が改めました。〕


先ほどの亀井さんの本からですが、この結末に対する印象についての言い回しが素敵だった(←)ので引用しました。亀井さんの御論はここからさらに続き、作品についてのポジティブな理解に向かって展開していくのですが、ここで言わんとしている事は『ハックルベリー・フィンの冒険』という作品がどんな作品かということではなくて
今月の『わざぼー』の感想です。皆さん、お忘れじゃないですよね?


■ すべては虚しかった、のか?

別の記事で「ハックルベリー・フィン」からセリフを引用したことの説明をしようとしたら、こういう余計な長話になってしまったのですが、今月の『わざぼー』に対するファーストインプレッションというのは 「すべては虚しかった、ということになる」 に近いものがありました。この虚しさというのは作品内から何かしらのテーマを読み取る事が出来、テーマに沿った目的意識を登場人物が自覚し達成しようという過程が散々描かれてきた、そして作品もその完了に向けて描かれているようであった、にも拘らず唐突な展開によってそれが阻止されてしまうという・・・。

あまりの急な出来事に読者はついて行けず驚愕するしかありません。
似たようなショッキング展開として、あとちょっとで光源氏の天下であり理想郷ともいえる六条院世界が完成されようというところで、女三の宮というニューヒロインの登場により全てが暗転していくという『源氏物語』第二部(若菜上~幻)というのもあったりしますね。(その破壊力から彼女のことをブラックホールなどと評した研究者もいるぐらいです。)


■ 結末を納得するために・・・

「ぱぱぱ」の感想であんなことを言ってしまった以上、この結末に対してポジティブな見解を言うのはどうなんだろうとも思うので、読んだまんまの解釈ということを前提に以下のお話をお聞きください。

まず確認したいのは、第一部、第二部ともに<わざ武王の討伐>が最終的な達成課題だったということ。果たして、わざ武王を討伐することが一体どのようにみみみちゃんの利益になるのか、【第一部】から遡って見てみるのですが、

【第一部】において、
みみみは“強くなる”という目標のために戦っており、“悪者からたからを守る”という(実は<わざ武王との対立関係>という大きな問題に関係している)仕事について、強い敵と出会うためのチャンスと捉えており、仕事を発生させる諸悪の根源の討伐という発想には至りませんでした。

仕事を続けることと目標の達成には密接な関係が有るように思われる。
しかし、戦闘によって好敵手と認めた<むむがわざ武王に囚われた>ことをきっかけに、みみみは仕事を半ばなげだして<わざ武王の討伐>に向かいます。この段階においては“強くなる”という目標よりも、<むむを囚われの身から解放すること>が物語のテーマになっていきます。

みみみとむむの共闘によってわざ武王は倒され、結果、<わざ武王の支配からのむむの解放>が達成されます。そして、敵対勢力の人間ではなくなったむむは、わざ武王との戦いで共闘したこともあり、みみみとの関係は戦友のような位置づけになったのではないかと思われます。

つまり、<わざ武王の討伐>によって<わざ武王からのむむの解放>がなされ、みみみは<むむ>という戦友を得た、というのがみみみの利益だったのではないか。敵を見据えることが戦闘を勝利に導くというようなことも言われていましたが、それ自体はみみみの力になっているというよりも、みみみを助けるむむの復活の呪文のように機能しているように思われます。(3-1)

【第一部】はむむを得るための<わざ武王の討伐>だったように思えます。

 ― ― ― ― ―

【第二部】では、
第一部に登場したみみみの“強くなる”という目標に意味づけがなされます。

新たなる敵・技神まーが送り込んできた刺客・シッポウとみみみは友だちになったけれど、“みみみをたおす”という仕事が完了されないことに痺れを切らしたまーは山に乗り込み、シッポウを消してしまいます。

みみみはショックのあまり戦いへの意欲を失うも、励ましにやってきたむむのアドバイスによって、みみみは戦いに“誰も消さないために強くなる”という意味を見出し、戦意を回復しました。

ここで【第一部】で獲得した<むむ>が加担して、みみみの目標に意味を与えたという繋がりは重く受け取っても良いようにも思えます。むむがいたことによりこの目標設定をすることができた、つまり、(なんの色気もない見方ですが)【第一部】での獲得がみみみを次の段階に進ませたというふうにも読みとれるように思われました。


―― さて、ここまで説明してしまうと、今月号の暗澹たる結果というのがなんとなく納得いくようにも思えないでしょうか?(--;)

みみみが<わざ武王を討伐>したところで得られるものがあったのか、甚だ疑問です。勝負に勝って試合に負けたではないけれど、みみみが今後何のために戦ったら良いのか私には分かりません;

そんな理由~!?などと言われるかもしれませんが・・・

むしろ、なぜ前号で気が付かなかったんだろうというレベルの話です;

・・・あーあ。



曽山さんがみみみちゃんたちになんらかの救済を施してくれれることをお祈りします。


■ 気を取り直して

ももタローくんのイメージカラーがピンクなことに私はかなり励まされました。
ピンク色の似合う男の子キャラというのは、めんめんちゃんのカラー未発表時から
登場を渇望していました ←  ・・・ぜったいに春日野ネタをやろう。

新タイトルの副題の壮大さにもビックリです。あれを見る限り「わざぼー」というものは一応あの世界に存在し続けてるということで良いのでしょうか?

アイテムが変わるのは「わざぼー」というのが作中で「わざ武王」の分身だと説明されましたが、これは名前の近似性によってそれらが近い存在であることを示していたように思われます。よーするに、「わざぼー」であるかぎり「わざ武王」からは切り離せないということではないでしょーか。

でも、この「ぼー」という語感が「相棒」だったり「希望」だったりというものを導いていたんじゃないんですか!?おーい、どうなるのこれは。


・・・それにしても、今後躍動するまーさまが見られなくなるのかと思うと色々と気持ちが沈みますね。せっかく顔が可愛く整ってきたのになぁ・・・。今月号全体的にプロポーションが良いですよね。

あと、「邪竜アッパー」というネーミングだけで三週間は笑い続けられる自身あります。
“昇竜拳”の邪(よこしま)バージョンみたいな。しかも、自力アッパーでなく、アッパーの所作で相手にぼーをあてて、あたかもアッパーしたかのように見せているぼーの魔法なんですよ?だから、厳密にはアッパーでないかもしれないけれど、アッパー・・・、そして、邪竜・・・不思議と笑える響きだ。「邪竜アッパー」。


あと、遊べそうなところは・・・・
「にがすかよ!!」のくだりのまーさま語を翻訳するぐらいかな?
PR
この記事にコメントする
Name
Title
Color
E-Mail
URL
Comment
Password   Vodafone絵文字 i-mode絵文字 Ezweb絵文字
カレンダー
12 2025/01 02
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31
最新コメント
[07/07 深水ニシン]
[12/05 深水ニシン]
[07/28 カイ]
[06/09 千笑]
[05/21 千笑]
プロフィール
HN:
深水ニシン
年齢:
114
性別:
女性
誕生日:
1910/04/21
ブログ内検索
P R
アクセス解析
忍者ブログ [PR]