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深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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(旧題:コロイチを買ってきたよ!)

 突然のせーりつうで恐ろしい痛みに見舞われて
 景色が白黒するなかを
 改装直後で不案内の地と化した駅に降り立ち
 野生の勘で本屋を嗅ぎあてる。

 ・・・わたし、一体何をやってるんだろう、とかツッコミいれたら負けなんだ!680円は高いとか文句を言ってはイケマセン!げーじゅつはパトロンがいなければ成立し得ないって、文化マネジメント論の授業でお勉強したもの!「アマデウス」を見せられたもの!支援者がいてこそ成り立つ芸術であるから、芸術家は支援者の意向に沿った作品づくりが要求される。モーツァルトは宮廷音楽家で王様がパトロンだから、バレエを禁止する王宮に従ったオペラを作らされようとする。モーツァルトの表現としてバレエは欠くことのできない要素だったから、つまり、モーツァルトはパトロンのために表現を制限されようとしていた。そんなようなことを言っていたはずなんだ!雑誌を買うということはある意味でパトロンたりうる権利を買ったようなものだ、と考えたら、意向を言うべきでないかしら、と思いつつ、世の中引っ込み思案の消費者は多いから、意見は上手く反映されない。世の中何だかちぐはぐだもの。わたしの意見もちぐはぐだもの。それよりいいのかこの論理。とってもかなりごういんぐまいうぇい。

 ↑ ・・・読まなくていいです。

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感想は下からどうぞ。
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 せーりつうは空腹由来のものと判断して、バス待ちの間に肉まんを一つ買って喰らい、かばんを覗いたら「EVE(鎮痛剤)」が入っていたから直後に生茶で飲んだ。この間の行動かなり切羽詰ってたので、周囲の目はどんなふうに私を見ていたのだろう・・・。うーむ。

 さて、「回転むてん丸」が本誌に移動したのはなんだろう。それだけ金銭的支援をしているのだろうか、くら寿司め。先日食べに行ったら、レジ前に二冊置いてました。コロイチ。あんなにボロボロになるまで読んでもらったコロイチはこの世にあるのかというぐらい、ヘリのところがくるくるしてました。幸せものめ!

 ダルくん、若干痩せた?

 何気にイモトを楽しみにしています。
 最後の初夢ばなしのオチに割かれた最終1ページの一枚絵。明らかに「一、富士 二、鷹 三、なすび」の言葉を踏まえてキャラクターを描いている。それなのに言葉についていっさい言及しない(*)という、これはなんだろう。作戦か?確かに補うと流れとして不自然ではあるけれど、これは読解力として読みが正解か否かという回答がなければ確証を得られないぐらいの年代を対象とするマンガではなかったか?それとも、その年代の読者に対して描かれたキャラクターと自分の知識から、絵の意味を論理的に説明する力を要求しているとでもいうのか?

「この図はおそらく一、富士 二、鷹 三、なすび の言葉を暗示しており、富士と鷹はそのものが描かれている。描かれていないナスビはイモトの頭部が獏に吸引されて変形したかたちによって示されているように思われる。ある意味だまし絵のような図といえる。初夢にそれら三つの縁起物が登場すると、その年はしあわせに過ごせるという言い伝えを踏まえて、今年一年をしあわせに過ごせますようにという作者からのメッセージ込められているのではないだろうか」

 ・・・コロイチ!恐ろしい子!!

*タカのみ記述あり


 相変わらず一生懸命色塗りしたと思われる読者投稿イラストコーナーの作品を見るにつけ、カラーで掲載すればいいのに、とか思うのだけれど。作品が勿体無い。読者の努力を昇華しきっていないような気がする。広告記事ばかりがカラーってのも切ないよ。読者だって雑誌にお金を払っているんだよ~・・・

 マリックのマジックコーナーがマニアックな絵柄ですね

* * *

■ わざぼー



 暗黒ま城のトイレは、その昔、和式トイレだったものを洋式に改築したのでしょうか。あの手前が段差になった造りはその名残ではないかと思われます。遠出したときのコンビニのトイレがこんなだと時代の流れを感じますね。

 まーさま、
  あなたが なんさいだか しりませんが、
 おしろはたてたんですか? かったんですか? 
 はいおくに いすわってや しませんか?
 もし あきやを ぬすんだのなら
 どろぼーです。 いけないとおもいます。
                    なまっと
            わたしは 七さいです。


 「かみさまへのてがみ」というサンリオから出版されてる本をご存知でしょうか?収録されたてがみの言葉を使って作曲した合唱曲もあります。キンコンカンコンでヘーイでピーーーー(指笛)ドンパンドンパン(足踏みと手拍子)してグッドラックな曲です。わたしは嘘はつきません。なぜならインディアンだからです。

 えー・・・と。あたまが沸いてますね。

 このマンガの中で、まーさま、どんどん面白い人になりつつあります。
 それにしても、いつも楽しそうでうらやましいばかり。このマンガでどのキャラになりたいですかと訊かれたら間違いなくこの人ですが、めんめんちゃんに裏切られて三日三晩泣いていそうです。・・・いかん。わたしは心のどこかでまーさまをまじめに取り扱うことを拒否している。

・ ・ ・

:まんがキャラクターは死なない

 『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)において、大塚英志氏が戦前から戦後にかけてのまんがキャラクターの身体表現の推移を「まんが記号説」を前提として論じている。「まんが記号説」とは手塚治虫のインタビューの発言から提唱され、まんが表現はあらかじめ用意された絵(記号)のパターンを組み合わせてひとつの表情や状態を表すという手法によるとする。
 大塚氏は手塚治虫が記号で表現したまんがを「絵ではない」といったことに着目し、絵とは写実的に描写する近代絵画を示すとして、ここにある写実性が記号的な絵には認められない。つまり記号説において描かれるキャラクターに写実性は付与されていないことを意味するのではないか、と説く。表現手法の性質と表現されるものは一致するものだから、写実性のないまんがは写実的な表現をし得ないはずである。しかし、手塚治虫のまんがは非写実的表現である記号的手法によって写実性を描こうとしていた。このような手塚治虫の試み以降、戦後まんがキャラクターはさまざまな問題につきあたりながら、写実的な身体を段階的に獲得していったのだという論理を展開しています。

 多少疑問に思うところはありますが、まんがキャラクターが写実性をもっていないというところに注目したいと思います。


(引用はじめ)
実際に爆弾が破裂したら近くにいた人間の身体は見るも無惨なものになってしまいます。「写実」的な表現であれば傷ついた身体や死体をも否応なく描写します。けれども記号的なまんが表現では爆弾が破裂したら「煤けた顔」という「記号」を持ち出せばいいのです。つまり、記号的な表現で描かれたまんがキャラクターは生身の体を持っていない存在なのです。


 大塚氏の論ずるところ、現在のまんがはある程度の写実性を獲得したようであるから、まんが表現が「傷ついた身体や死体」を描写しないといわれても俄かに信じがたい話ではある。けれど、まんが表現における傷や死は記号としての傷であったり死であったりする。記号を組み込む、あるいは組み替えさえすれば、キャラクターは傷つき、死ぬ。組みなおせば治癒するし、生き返るということでもあるのだ。

 今月のわざぼーはこの大塚氏の説かれた「まんがキャラクターは生身の体を持っていない」とする説を保障するようなお話でした。外傷が記号にすぎないことをはっきり示している。以前、4-5のバケラーにおいて記号的な死が描かれたことも思い合わせて、曽山さんはまんが表現が記号的であることに意識的でこの表現の性質を積極的にとりいれつつネタを作られていると思います。だから、まんが表現が写実性をもたない記号的表現であるとする以上、死は描けないし、致命的な傷を描くこともできないのです。

 先に、現在のまんがはある程度の写実性を獲得しているようだと言ったけれど、それは写実的に描こうという意欲と写実性を付与し続けること、また写実的だと認識される表現手法の普及によって可能なのだと思う(やはり、本来描かれたまんがキャラクターというのは生身の身体ではないのである)。曽山さんの作品「でんじゃらすじーさん」は全体的に写実性のない記号的表現がされるのだけれど、「わざぼー」は事情が異なる。
 おそらく、「わざぼー」はなんでもありとはいえ、ある程度の写実性を持たせたかったはずである。そうでなければ3-1で血を流すみみみにむむがあそこまで怒りを覚える事もなかっただろうし、同じく3巻収録の外伝でまーがヘビーに攻撃を放ったことによる画面いっぱいの血しぶきの描写に残虐性はなかったはずだ。(ヘビーは消滅ではなく<写実的に>死んだだろうと思う)。それよりも3-1でむむの悪夢の中で男達が白目をむいて倒れているという、これはあきらかに写実的な死体を描こうという意図があったように思うのだ。しかし、「わざぼー」は今月号やバケラーの話のようにまんが表現はあくまで写実性のない記号の組み合わせに過ぎないという表現もなされる。「わざぼー」は写実性と非写実性が混在する世界なのである。

:写実性と非写実性の間で
 写実性と非写実性の混在という成立し得ない世界に対して曽山さん自身頭を痛めているのではないか。それが表出しているように思えるのが、最後の大長編とされる「いのちときもちとぱぱぱぱぱーっ!?」(09年10月号付録)である。タイトルの通り<いのち>と<きもち>をテーマにしているこの作品には元校長が排除されている。この理由について、写実性と非写実性の問題を絡めて考えてみたい。以下、大長編のネタバレがあるのを了承のうえお読みください。

 元校長が排除された理由は10月号本誌のほうにはっきり示されている。校長は大長編において常に死亡していることが指摘される。しかし、本編では生き続けているから、つまり、校長は死なない非写実的身体をもつキャラクターの権化のような存在なのである。非写実的身体を持つということ自体は物語に参加する権利を奪うことにはならないのであるが、彼は毎回死亡する、つまり今回のテーマで描こうとする<いのち>の写実性までも奪ってしまう可能性があるのだ。校長の排除とは、<いのち>の写実性を保つための処置なのである(ただし一コマだけ登場する。が本編に干渉しない)。

 作品は新しくできたペットショップステイルにじーさん一行(じーさん、まご、ちゃむら、ゲベ)が立ち寄り、偶然、ゲベは売れ残って処分されるペットたちが収容された地下牢に迷いこむ。ゲベは一匹の子犬と意気投合し、彼を助け出そうとするが店主に見つかってしまい銃で撃たれる。ゲベは傷つき、子犬は殺されてしまう。ゲベのピンチを聞きつけたじーさんたちによる救出劇と、死んだ子犬の墓をせめて地上に建てようと奮闘するゲベの姿が描かれる。

 ここでは子犬の死が写実的に描かれなくてはならない。銃弾で打ち抜かれた子犬は血を流して死ぬのである。もし、非写実的記号表現によれば、銃創から血を滴らせて穴だらけになっても活発に動く事が可能であろうが、ここではぐったりと倒れて動かない。死んだ子犬を背負ってゲベは追ってくる店主から逃れようとする。そのとき、死がいは「にもつ」のように「おもい」。この重みは現実の重さであり、やはり写実的な傷害をおうゲベにずっしりとのしかかり、ゲベ自身も危ない状態になる。ゲベはあたかも傷がなくなったかのように軽々と子犬を運び続ける事は出来ない。このときのゲベの痛みは現実の痛みなのである。
 このように、ゲベも子犬も写実的な身体を獲得しており、一方は傷つき、一方は死んでいる。間違いなく、レイトーンやバケラーのような身体表現ではないのである。

 本編のレギュラーメンバーであるゲベはこのように写実的な身体を付与されている。しかし、他のレギュラーキャラクターはどうであるかといえば、じーさんもまごも依然非写実的身体のままなのである。と、いうのは彼らは逃亡中かなりの運動量であるだろうにも拘わらず息切れしないのだ。逃亡時ゲベも無表情に走ってはいるが、さきに記したように子犬の重みと傷の痛みに耐えられず倒れてしまう。その二匹を担いでなお逃げ続けても疲れを知らないじーさんの身体は非写実的といえるのではないか。むしろ、ゲベが倒れた瞬間、じーさんたちとゲベの間に写実的と非写実的の線引きがされたとも考えられないか。担ぎ上げられた事で、写実的身体は非写実的身体の止まることをしらない運動に巻き込まれずに済むのである。じーさんと同様の身体表現をされるまご(やはり疲れない)も非写実的身体といえる。
 ちゃむらいは現実的でない生き物であるにせよ、性質として写実性を持つ身体は持ちうるはずであるが、壁にめり込むほどの衝撃を受けても平気なようなのでやはり非写実的なのである。(ちゃむらいは逃亡劇に参加しないため、これ以上の検証はしない)。
 じーさんとまごの非写実性は徹底しおり、記号的にしろ息切れをあらわす「嘆息」の記号や、体温の上昇をあらわす「汗」の記号を組み込まれてもいいはずであるが、それすらないのだから。「汗」は焦りや呆れの感情をあらわす記号として使われており、整理的作用によるものではない。

 ゲベが写実性をもつ身体を獲得した事は先に記した。しかし、途中でこの写実性は失われる。じーさんとまごが店主の放った地上最強のネコ「デビル・キャット」に襲われてピンチに陥った。そのとき、子犬の亡霊のようなものに呼びかけられてゲベは目を覚まし、子犬を背負ったまま地に降り立つ。この瞬間、ゲベはふたたび非写実性の世界に足を踏み入れることになる。また、<地上最強>のデビル・キャットと対峙したとき、このネコとゲベの血のつながりが明らかになる。<地上最強>とは言葉の通り<最強>であるから、一切の加害を受けない存在であり、写実性からは逸脱したような肩書きである。その名をもつネコの血統であるゲベに写実性があるとも思えない。地に降りるとともに血統もくわえてゲベの写実的身体は二重に取り消されるのである。(検討の余地あり)

 以降、背負われた子犬以外はレギュラーとおなじく、非写実的な身体性をもつキャラクターたちのみのやり取りとなり、店主はじーさんらに寝返ったデビル・キャットによって店と共にボコボコにされるのであるが、店の瓦礫に埋まる店主はそのような状態にあるにも拘らず「大怪我」の記号を付与されてピクピクと生きている。ここにしめされた傷は、先の子犬とゲベにあったような写実性をもった身体表現とは異なるように思うのである。

:再びまんがのキャラクターは死なない
 ゲベは花畑の中を死んだ子犬とかけまわる夢を見る。そのシーンに物語のまとめともいえるテーマを反復したテキストが添えられて幕を閉じるのであるが、しかし、最後のページでゲベと子犬の会話を見てみると
ゲベ「ところでさーオマエってホントに死んだの?」
子犬「ううん。」
ゲベ「あ、そーなの?」
という、いまいち腑に落ちないことを言っているのだ。
 物語内で子犬は確かに死んでいるのに、どうしてここで子犬は自分の死を否定するのか。
 先ほど子犬が気絶するゲベのもとに亡霊になって現れたといったが、そのような表現があったからといって、子犬はゲベの心の中で生きている、ということ言わんとするものとも思えないのである。ゲベの「あ、そーなの?」という、淡白な反応はゲベがポーカーフェイスなキャラクターだとしても、ひどくあっさりしているように思えるのだ。
 これは結局のところ、写実性をもたない記号的まんが表現においては、本当の死を描けないという曽山さんの感慨というかもどかしさというか、そういうものを込めた会話じゃないだろうか。写実的な身体を付与した子犬は銃弾で打ち抜かれるという致命傷を負って死んだけれど、非写実的な身体をもつ店主は大怪我を負い瓦礫に埋まっているという状態であるにもかかわらず死なない。記号を組み合わされてあたかも大怪我を負ったような状態になっているのであるが、あくまで記号的で非写実的なのである。このように、キャラクターが担う身体性の違いによって生死が別れるということが同一作品上にあるのは不自然なのである。

 あるいは、写実性を描く事が出来る表現力をもちながら、結局、非写実に還元しなければならにということに対して、なにか思うことがあるのかもしれない。


* * *

 ・・・とか、なんとか勝手に考えてみたのだけれど、最後の会話は一体どのように受け止められたのでしょうか。読者のみなさん・・・(汗

 と、いうわけで「わざぼー」の先行きが不安なのであります。

[2009.11.26]
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