深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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なによりだ
しっているのは おまえだけだし
こしらえたのは わたしひとりだし
小野寺悦子『くしゃみザウルス』より
博物館から逃げ出してきた恐竜の骨と出会ったわたし。寒そうにしている骨をパンヤ(綿)で包んでぬいぐるみにしてしまう、というコミカルかつファンタジックな詩です。
つぎはぎの出来は悪くたって
骨は本物だ
いまに
でっかい卵をうんでくれ
と締め括られる。『横山潤子作品集 同声編1』の横山潤子のあとがきによれば、詩の作者・小野寺悦子はこの作品を“菩提樹的な作品”とおっしゃっていたそう。また、この詩に曲をつけた横山潤子は当初同声(児童や女声向けの譜面)ではなく、混声(女声・男声一緒に歌う譜面)で作るつもりだったらしい(※)。
(※)『横山潤子作品集 同声編2』あとがきより
男女にした場合のロマンチックな想像を膨らませてみれば、このシュチュエーション、脱走ものラブストーリーを思わせる。逃亡中の身の上の相手にぬいぐるみを着せて匿っているわたし。正体不明の相手に「しっているのは おまえだけ/こしらえたのは わたしひとり」と呼びかけるとも、独白してるともとれるこの台詞にキュンとくる?!
さて、管理人はこの詩が大好きだ。
一瞬、博物館級の“おまえ”を所有したようで、ちょっと偉くなったような気になれるし、
あたかも“わたしとおまえ”とで共謀する親密さを得たような気持ちになれるから。
*
公共の財産として、あるいは教材として博物館に飾られている恐竜の骨。わたしには学術的に名づけられた名称を忘れ去られ“ナントカザウルス”と認識される。太古の昔に肉体を失って既に元の姿がどんなふうだったのか知る人もいないのに、科学的想像力でもって予想図としての肉体を与えられている。しかし、本当のところは分からない。実際の姿を知るものは当人の他にはいないであろう。
真実の姿を知られない、本来的には不定形の自由の身であり、自分だけの孤高の自由を持てるはずの骨。しかし、骨だけの身体は寒いので“くしゃみばかり”していた。
わたしは寒がる骨を引き寄せてパンヤで包んでぬいぐるみに仕立て上げてしまう。もともとは公共の財産とされた骨から、周知されていた名を奪い、本来の正体不明のそれにまで純化したうえで、わたしの手によって肉付けする。―― 公共財産の私物化という意味で、わたしにどこか悪辣さも感じられるのだけど…… たぶん、このちょっと悪い感じが良いんでしょうね(笑)
だれも本物をみたことがないのは
なによりだ
しっているのは おまえだけだし
こしらえたのは わたしひとりだし
(略)
つぎはぎの出来は悪くたって
骨は本物だ
いまに
でっかい卵をうんでくれ
いつか卵を生み出してくれるような(これはわたしの利益になってくれるもののように思われる)、協調関係がわたしと骨の間に生まれたかのように錯覚する。
でも、深水はいずれ骨が逃げ出すように思えてならない。
骨をぬいぐるみにする。これはわたしの一方的な感情移入による骨の支配であって、骨自身の自由意思を確保したわけではない。骨はまた逃げ出して、誰かに発見され、再び名や身体を与えられる。そういった支配を潜り抜けながら、自分自身の正体を曖昧にし続けるように思う。所有からの逃亡を繰り返し、誰のものにもならないことで孤高の自由を獲得している古のそれは時代を経ることでその自由を揺るぎないものとするであろう。
わたしが骨をぬいぐるみに出来た理由。骨という誰も正体を知らない不定形のものであるからこそ、わたしが想像する(創造する)自由やチャンスがあった。しかし、骨自身が“おまえだけ”が知っている正体を表した瞬間、わたしの作り出したぬいぐるみは脱ぎ捨てられるであろう。わたしが骨に姿を与えたことによって得られた満足感や支配感、協調関係や所有意識は骨の自由意志によってきっと持続し得ない。
*
わたしも分かっている。“本物”があること。それを“おまえだけ”が“しっている”。決してわたしも博物館も侵す事は出来ない。正体が秘密にされているからこそ、わたしたちは想像する。名前を与え、姿を作りだす。そうして生み出した創造物の不確かさへの不安を“本物”がもとになっているという理由で払拭して自信を持つ。
そこで深水が思うのが、この詩が創造する作業そのものを描いているという可能性と、作者・小野寺悦子の言った「菩提樹的な作品」の意味である。そもそも創造する行為とは周囲にある人知を越えたモノやコトの正体の謎(もっとかわいい言葉で言えば“世の中の不思議”)を考えた答えではないか。そうした行為を描いた詩のように思える。だからこそ、菩提樹的―― 悟りをひらいた作品だったのではないか。
正体不明の“本物”に対して一つの答えをだす。科学的な理解で得るのではなく、自分の想像で答えを導くことで創造性が生まれる。そうして作り出した姿が、もし、骨の気に入るものであれば“でっかい卵”を生み出してくれるのではないか。―― “卵”に結実するというところに、やはり、ザウルスとわたしの相思相愛を思わせるのだけれど(笑)
“でっかい卵”のことをわたしは≪わたしが手にするべき利益≫だと思っている。創造物によって得られる見返りではないか。それはもしかすると“わたし”の創造性への評価かもしれない。しかし、それを他者からの評価によって得られるものとは言わず、骨から「OK」されることでうみだされるものと考えているように思われる。愛情に似た、互いの結びつきがあってこそ、それはきっと“卵”になる、という発想なのではないか。
正体不明のそれに想像を膨らませる行為(創造する行為)は、いわば、アプローチであり、プロポーズのようでもあり、そうしたことで得られた満足感、支配感、所有意識や協調関係は、瞬間の蜜月のように思える。果たしてそれが卵に結実するかは“本物”の自由意志によって決定される。まるで、ハラハラドキドキのラブ・ストーリー。
そんな、創造行為と恋愛とを絡めたようなドラマを、骨にぬいぐるみ着せてでっかい卵を産んでくれ、なんていう色気のないモチーフで包み込みユニークに仕立てた作品なんじゃないか。…… と深水は解釈しております。
*
「創った瞬間」の自己満足でしかない自信や満足が描かれる一方で、創る行為が自分だけじゃなく、正体不明のそれとの協調関係によるという発想が大好きだ。また、「わたし」が楽しむだけじゃなく「おまえ」にアプローチする気持ちがあるところが良い。
「いまに/でっかい卵をうんでくれ」
なんて、豪快なプロポーズで締め括られるところがまた良いっ!!!
*
深水も創造する行為が「おまえ」のおかげである
という根底を持っていたいと思う。それを忘れたような表現はしたくない。
…… 果たして、一年、この信念を貫き通せるかっ?!
そんなわけで
2013年 新年あけましておめでとうございます!
公共の財産として、あるいは教材として博物館に飾られている恐竜の骨。わたしには学術的に名づけられた名称を忘れ去られ“ナントカザウルス”と認識される。太古の昔に肉体を失って既に元の姿がどんなふうだったのか知る人もいないのに、科学的想像力でもって予想図としての肉体を与えられている。しかし、本当のところは分からない。実際の姿を知るものは当人の他にはいないであろう。
真実の姿を知られない、本来的には不定形の自由の身であり、自分だけの孤高の自由を持てるはずの骨。しかし、骨だけの身体は寒いので“くしゃみばかり”していた。
わたしは寒がる骨を引き寄せてパンヤで包んでぬいぐるみに仕立て上げてしまう。もともとは公共の財産とされた骨から、周知されていた名を奪い、本来の正体不明のそれにまで純化したうえで、わたしの手によって肉付けする。―― 公共財産の私物化という意味で、わたしにどこか悪辣さも感じられるのだけど…… たぶん、このちょっと悪い感じが良いんでしょうね(笑)
だれも本物をみたことがないのは
なによりだ
しっているのは おまえだけだし
こしらえたのは わたしひとりだし
(略)
つぎはぎの出来は悪くたって
骨は本物だ
いまに
でっかい卵をうんでくれ
いつか卵を生み出してくれるような(これはわたしの利益になってくれるもののように思われる)、協調関係がわたしと骨の間に生まれたかのように錯覚する。
でも、深水はいずれ骨が逃げ出すように思えてならない。
骨をぬいぐるみにする。これはわたしの一方的な感情移入による骨の支配であって、骨自身の自由意思を確保したわけではない。骨はまた逃げ出して、誰かに発見され、再び名や身体を与えられる。そういった支配を潜り抜けながら、自分自身の正体を曖昧にし続けるように思う。所有からの逃亡を繰り返し、誰のものにもならないことで孤高の自由を獲得している古のそれは時代を経ることでその自由を揺るぎないものとするであろう。
わたしが骨をぬいぐるみに出来た理由。骨という誰も正体を知らない不定形のものであるからこそ、わたしが想像する(創造する)自由やチャンスがあった。しかし、骨自身が“おまえだけ”が知っている正体を表した瞬間、わたしの作り出したぬいぐるみは脱ぎ捨てられるであろう。わたしが骨に姿を与えたことによって得られた満足感や支配感、協調関係や所有意識は骨の自由意志によってきっと持続し得ない。
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わたしも分かっている。“本物”があること。それを“おまえだけ”が“しっている”。決してわたしも博物館も侵す事は出来ない。正体が秘密にされているからこそ、わたしたちは想像する。名前を与え、姿を作りだす。そうして生み出した創造物の不確かさへの不安を“本物”がもとになっているという理由で払拭して自信を持つ。
そこで深水が思うのが、この詩が創造する作業そのものを描いているという可能性と、作者・小野寺悦子の言った「菩提樹的な作品」の意味である。そもそも創造する行為とは周囲にある人知を越えたモノやコトの正体の謎(もっとかわいい言葉で言えば“世の中の不思議”)を考えた答えではないか。そうした行為を描いた詩のように思える。だからこそ、菩提樹的―― 悟りをひらいた作品だったのではないか。
正体不明の“本物”に対して一つの答えをだす。科学的な理解で得るのではなく、自分の想像で答えを導くことで創造性が生まれる。そうして作り出した姿が、もし、骨の気に入るものであれば“でっかい卵”を生み出してくれるのではないか。―― “卵”に結実するというところに、やはり、ザウルスとわたしの相思相愛を思わせるのだけれど(笑)
“でっかい卵”のことをわたしは≪わたしが手にするべき利益≫だと思っている。創造物によって得られる見返りではないか。それはもしかすると“わたし”の創造性への評価かもしれない。しかし、それを他者からの評価によって得られるものとは言わず、骨から「OK」されることでうみだされるものと考えているように思われる。愛情に似た、互いの結びつきがあってこそ、それはきっと“卵”になる、という発想なのではないか。
正体不明のそれに想像を膨らませる行為(創造する行為)は、いわば、アプローチであり、プロポーズのようでもあり、そうしたことで得られた満足感、支配感、所有意識や協調関係は、瞬間の蜜月のように思える。果たしてそれが卵に結実するかは“本物”の自由意志によって決定される。まるで、ハラハラドキドキのラブ・ストーリー。
そんな、創造行為と恋愛とを絡めたようなドラマを、骨にぬいぐるみ着せてでっかい卵を産んでくれ、なんていう色気のないモチーフで包み込みユニークに仕立てた作品なんじゃないか。…… と深水は解釈しております。
*
「創った瞬間」の自己満足でしかない自信や満足が描かれる一方で、創る行為が自分だけじゃなく、正体不明のそれとの協調関係によるという発想が大好きだ。また、「わたし」が楽しむだけじゃなく「おまえ」にアプローチする気持ちがあるところが良い。
「いまに/でっかい卵をうんでくれ」
なんて、豪快なプロポーズで締め括られるところがまた良いっ!!!
*
深水も創造する行為が「おまえ」のおかげである
という根底を持っていたいと思う。それを忘れたような表現はしたくない。
…… 果たして、一年、この信念を貫き通せるかっ?!
そんなわけで
2013年 新年あけましておめでとうございます!
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