深水ニシンの個人サイト「あらしののはら」管理用ブログです。
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『コロコロアニキ』第4号☆感想に拍手くださった方、
ありがとうございます!
検索除けしていないブログのほうから、つづけて書いてきた『わざぼー』『わざぐぅ!』感想以外に特に興味をもたれるようなことは書いていないと思っていたので、あとはもう、本当に自分の好きなモノをひとり言にブツブツ言ってればいいぐらいの気持ちで反応を期待していなかったので、本当にうれしいですm(_ _)m
*
前の記事で書いたように買ってきた「ゆーほーくん」は、期待していた以上にツボでした。
が、感想文章まとまってないので、
先に、アニキ4号感想の直後ぐらいに上げる気だった文章をやっとまとめたので、そちらを。
「明日は日曜日……」の感想、追記みたいなものです。
(昨年サボったせいで後回しだけど、書いておきたい事はたくさんある……)
ありがとうございます!
検索除けしていないブログのほうから、つづけて書いてきた『わざぼー』『わざぐぅ!』感想以外に特に興味をもたれるようなことは書いていないと思っていたので、あとはもう、本当に自分の好きなモノをひとり言にブツブツ言ってればいいぐらいの気持ちで反応を期待していなかったので、本当にうれしいですm(_ _)m
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前の記事で書いたように買ってきた「ゆーほーくん」は、期待していた以上にツボでした。
が、感想文章まとまってないので、
先に、アニキ4号感想の直後ぐらいに上げる気だった文章をやっとまとめたので、そちらを。
「明日は日曜日……」の感想、追記みたいなものです。
(昨年サボったせいで後回しだけど、書いておきたい事はたくさんある……)
* * *
● どう見えているか、感じているかを表象すること。
藤子不二夫Ⓐ先生はスゴイ作家だと思った。
今さら感満載のことを言っているけれど、今まであまり読んだことがなかったので、自分でわかるまでをすっとばして大先生と呼ぶのも違うだろう。いままでの人生が勿体なかった!
中学生の頃、「忍者ハットリくん」を読んだという記憶はある。色んな作家作品を一冊にまとめた文庫本みたいなものがうちにあって、ハットリくんのデザインができるまでについて語っているのが印象深かったけれど、それ以外覚えていない。
『魔太郎がくる!!』を集めようかどうしようか迷っていたところで、コロコロアニキに「明日は日曜日そして明後日も……」が再録されたので読む機会に恵まれたのはラッキーだった。
コロコロアニキ第4号の感想にも書いたけれど、「明日は日曜日……」はネット上で読める。http://fujiko-a.com/(ブラック・ユーモアの項の上段左から二番目青い表紙をクリック!)
こういう話で誰かの主観に沿うのでなく、全体を俯瞰して描いているのがスゴイと思った。一人称と天の目によって書くののどちらが技術として優れているという話ではなくて、特徴として、俯瞰ならば描かれている事全てに対して公平に見える。そんな気がした。
ところで、これを読んでいて思い出したのが山田花子(漫画家)だ。
(余談だけれど、この方は『魔太郎がくる!!』を愛読していたらしい)
雑誌の企画で島耕作シリーズの作者・弘兼健二と山田花子は対談しており、作家双方が漫画にしている。ネット上にアップロードされているものがあったのでリンクを貼っておく。
弘兼健二が描いたほう (まんだらけ副店長のブログ)
――『岩井の本棚』「山田花子」の記事
山田花子が書いたほう (個人のブログ)
――『天の井戸』【感想・批評】未知との遭遇、そして悲劇 —漫画家・山田花子×弘兼憲史—
双方から描かれているものを読めば、出来事に対してある程度公平な目で見られる。だけれど、片方だけ読むと他方の印象操作になりかねない、というのはリンク先のブログ管理人の記事を参照されたい。
なお、山田花子はウィキペディアにも記載があるように〈自殺した作家〉としての印象が世間で知れるところである。『自殺直前日記』は何度か改定されながら出版されているし、『隠蔽された障害―マンガ家・山田花子と非言語性LD』という精神科医による漫画作品から作家のアスペルガー症候群を検証する研究論文が出版される(現在発禁)など、作家のパーソナリティについて扱った出版物が出回っている。
作家が、作品の内容でなく、パーソナリティを問われるのはどんな気分になるのか計り知れないところだが、弘兼先生と編集者は決して山田花子の作家としての手腕を悪くは言っていない。しかし、描かれた当人の気持ちとして、印象を悪くするだろう描き方なのも確かだ。(というか、山田花子は印象が悪くなることを危惧して不快感を示していた)
一見不可解な人間についてを客体としてとらえ、言い広めることは、その不可解な人自身が語ることができない場合、一方的な決めつけとして彼らの主体性を奪いかねない。
件のまんがは、山田花子がひたすら世間との軋轢を気にして、塞ぎこんで沈黙しているというのが読み比べていて気になったところだ。ところで、その作中にも見られるが、山田花子は絶対的な人物が高圧的に振舞うとき後光を描画するという特徴がある。
主人公に対して相手が高圧的だったり絶対的正論を言う調子で話すとき背景に後光と言うか、旭日旗の光線のようなものを描き入れる。旭日旗には、どこか戦時の強い力をもつ絶対者の態度を重ねられる。制圧的というか、言論統制などの規制を敷く強制力のようなものが、この表現からはうかがえるように思う。そういった類の緊張感を後光を背負う人物から主人公は感じている、ということが読み取れそうではないか。
山田花子は、それほどまで他者に緊張を感じて沈黙する者を主語にして描いているのだ。絶対的な調子で言う人たちに反発できない人の心内語を語らせていた。不満、怒り、焦り、疑問などがそこにはあった。
一方で、おおかた俯瞰で描いている「明日は日曜日……」の坊一郎からは、それらしい心の声は読みとれない。しかし、彼は両親や社会人に対して山田花子が描いたような緊張を感じていたのではないかと思える。彼の傷ついた心の描写があるように。それでも、彼から、周囲への疑問や反発する意思は読みとれないし、ありそうもない。
それは、扉のイラストにおいて示されている。扉で、彼は足の爪を切っているのである。これは自身がおかれている状況に対して、刃向うとか、反発する、というようなエネルギーを自ら去勢する姿の比喩として描かれているであろう。坊一郎は、社会に出てそれぞれの場所へ向かって行く人の波に逆らい、会社へ行かず、家に帰り、ひきこもるのが精いっぱいで、決して彼らに牙をむくことはない。自身の中にある安定に向かって行く。
坊一郎の社会に対する意見がどうであるかは、誰にもわからない。
他者に向けて表現しないということは、他者から一方的な解釈を受けるということであるが、それに坊一郎は耐えられるのだろうか? 自身の中の安定にしか興味はなく、社会との関係を一切絶つのだろうか。自足できなくては、両親の蓄えが底を尽きたら共倒れだ。
……理想的なのは、自身の中の安定を保って、社会とは関係を続けていくという公私の分断と使い分けをできることなのだろうけれど。あるいは、社会では私を問わないという線引きをして、公の部分を評価するようであれば、安定を侵されることはないだろう。
一体、社会は、共感と同調と協力のルールのなかに、どこまで私を取り込もうとしているのか。その距離感を測るのがむずかしかった、というのが坊一郎だったのかもしれない。
この作品が描かれた当時の状況はしらないので、今の私の目から見ての感想だが、一瞬社会的に何の問題もなく登場する同級生の中田くんも不思議な人物だ。果たして、彼の嗜好品やおしゃれな出で立ちのどこまでが、彼の私なのか、社会的ルールにとりこまれたいわゆる流行のものなのか、よくわからない。彼自身の趣味なのか、社会への擬態なのか、まるでわからない。
両親との分離が出来ていない坊一郎も不気味だが、中田くんも得体が知れないところがある。
俯瞰してみたときに、個別性が見えないのがわたしはとてもきもちがわるい。
● どう見えているか、感じているかを表象すること。
藤子不二夫Ⓐ先生はスゴイ作家だと思った。
今さら感満載のことを言っているけれど、今まであまり読んだことがなかったので、自分でわかるまでをすっとばして大先生と呼ぶのも違うだろう。いままでの人生が勿体なかった!
中学生の頃、「忍者ハットリくん」を読んだという記憶はある。色んな作家作品を一冊にまとめた文庫本みたいなものがうちにあって、ハットリくんのデザインができるまでについて語っているのが印象深かったけれど、それ以外覚えていない。
『魔太郎がくる!!』を集めようかどうしようか迷っていたところで、コロコロアニキに「明日は日曜日そして明後日も……」が再録されたので読む機会に恵まれたのはラッキーだった。
コロコロアニキ第4号の感想にも書いたけれど、「明日は日曜日……」はネット上で読める。http://fujiko-a.com/(ブラック・ユーモアの項の上段左から二番目青い表紙をクリック!)
こういう話で誰かの主観に沿うのでなく、全体を俯瞰して描いているのがスゴイと思った。一人称と天の目によって書くののどちらが技術として優れているという話ではなくて、特徴として、俯瞰ならば描かれている事全てに対して公平に見える。そんな気がした。
ところで、これを読んでいて思い出したのが山田花子(漫画家)だ。
(余談だけれど、この方は『魔太郎がくる!!』を愛読していたらしい)
雑誌の企画で島耕作シリーズの作者・弘兼健二と山田花子は対談しており、作家双方が漫画にしている。ネット上にアップロードされているものがあったのでリンクを貼っておく。
弘兼健二が描いたほう (まんだらけ副店長のブログ)
――『岩井の本棚』「山田花子」の記事
山田花子が書いたほう (個人のブログ)
――『天の井戸』【感想・批評】未知との遭遇、そして悲劇 —漫画家・山田花子×弘兼憲史—
双方から描かれているものを読めば、出来事に対してある程度公平な目で見られる。だけれど、片方だけ読むと他方の印象操作になりかねない、というのはリンク先のブログ管理人の記事を参照されたい。
なお、山田花子はウィキペディアにも記載があるように〈自殺した作家〉としての印象が世間で知れるところである。『自殺直前日記』は何度か改定されながら出版されているし、『隠蔽された障害―マンガ家・山田花子と非言語性LD』という精神科医による漫画作品から作家のアスペルガー症候群を検証する研究論文が出版される(現在発禁)など、作家のパーソナリティについて扱った出版物が出回っている。
作家が、作品の内容でなく、パーソナリティを問われるのはどんな気分になるのか計り知れないところだが、弘兼先生と編集者は決して山田花子の作家としての手腕を悪くは言っていない。しかし、描かれた当人の気持ちとして、印象を悪くするだろう描き方なのも確かだ。(というか、山田花子は印象が悪くなることを危惧して不快感を示していた)
一見不可解な人間についてを客体としてとらえ、言い広めることは、その不可解な人自身が語ることができない場合、一方的な決めつけとして彼らの主体性を奪いかねない。
件のまんがは、山田花子がひたすら世間との軋轢を気にして、塞ぎこんで沈黙しているというのが読み比べていて気になったところだ。ところで、その作中にも見られるが、山田花子は絶対的な人物が高圧的に振舞うとき後光を描画するという特徴がある。
主人公に対して相手が高圧的だったり絶対的正論を言う調子で話すとき背景に後光と言うか、旭日旗の光線のようなものを描き入れる。旭日旗には、どこか戦時の強い力をもつ絶対者の態度を重ねられる。制圧的というか、言論統制などの規制を敷く強制力のようなものが、この表現からはうかがえるように思う。そういった類の緊張感を後光を背負う人物から主人公は感じている、ということが読み取れそうではないか。
山田花子は、それほどまで他者に緊張を感じて沈黙する者を主語にして描いているのだ。絶対的な調子で言う人たちに反発できない人の心内語を語らせていた。不満、怒り、焦り、疑問などがそこにはあった。
一方で、おおかた俯瞰で描いている「明日は日曜日……」の坊一郎からは、それらしい心の声は読みとれない。しかし、彼は両親や社会人に対して山田花子が描いたような緊張を感じていたのではないかと思える。彼の傷ついた心の描写があるように。それでも、彼から、周囲への疑問や反発する意思は読みとれないし、ありそうもない。
それは、扉のイラストにおいて示されている。扉で、彼は足の爪を切っているのである。これは自身がおかれている状況に対して、刃向うとか、反発する、というようなエネルギーを自ら去勢する姿の比喩として描かれているであろう。坊一郎は、社会に出てそれぞれの場所へ向かって行く人の波に逆らい、会社へ行かず、家に帰り、ひきこもるのが精いっぱいで、決して彼らに牙をむくことはない。自身の中にある安定に向かって行く。
坊一郎の社会に対する意見がどうであるかは、誰にもわからない。
他者に向けて表現しないということは、他者から一方的な解釈を受けるということであるが、それに坊一郎は耐えられるのだろうか? 自身の中の安定にしか興味はなく、社会との関係を一切絶つのだろうか。自足できなくては、両親の蓄えが底を尽きたら共倒れだ。
……理想的なのは、自身の中の安定を保って、社会とは関係を続けていくという公私の分断と使い分けをできることなのだろうけれど。あるいは、社会では私を問わないという線引きをして、公の部分を評価するようであれば、安定を侵されることはないだろう。
一体、社会は、共感と同調と協力のルールのなかに、どこまで私を取り込もうとしているのか。その距離感を測るのがむずかしかった、というのが坊一郎だったのかもしれない。
この作品が描かれた当時の状況はしらないので、今の私の目から見ての感想だが、一瞬社会的に何の問題もなく登場する同級生の中田くんも不思議な人物だ。果たして、彼の嗜好品やおしゃれな出で立ちのどこまでが、彼の私なのか、社会的ルールにとりこまれたいわゆる流行のものなのか、よくわからない。彼自身の趣味なのか、社会への擬態なのか、まるでわからない。
両親との分離が出来ていない坊一郎も不気味だが、中田くんも得体が知れないところがある。
俯瞰してみたときに、個別性が見えないのがわたしはとてもきもちがわるい。
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